BAKULAB。

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2014-07-27

詩で浜寺の景観を守った!大久保利通が税所篤を動かした洒落た政治【浜寺の惜松碑】

2014-07-27
大坂に濱寺公園の惜松碑があります。
大坂の濱寺は数里に渡る白浜と松の名勝で、紀貫之や藤原定家なども、この美しい景勝地を眺め、和歌を残している場所です。


高師の濱の松が士族授産で伐採

そんな名勝が、明治五年、士族授産のため人民に払い下げ、同年の12月から樹木が伐採されることになります。

明治六年夏の夕方に、当時大坂府知事だった税所篤と内務卿であった大久保利通は
高師の濱を見るため訪れます。

この濱の石に腰をかけて、四方の景色を見渡すほど松の林が伐採されていたのを見て
いかなる故にか(この濱の姿はなぜか)
と大久保は税所に訪ねます。

当時、既に2,639本あった松が、1,791本はすでに伐採され、残り848本になっていたそうです。

税所は、
近き頃士族授産の為にとて、払い下げたるなり(士族授産の為に払い下げるためです)
と答えると、

かかる名所の松の幾百歳経たらんをことことくきりはらはんは、まことになさけなきわざなり。
ここのつかさともあるものの心なし

(有名な何百年もの松の景勝がことごとく切り払われてしまうことは、真に情けない。
大坂を管理している者として思いなしか。)


詩を詠み千年の勝地の廃滅を止める

大久保は、乱伐されたその姿を見て、いかに士族授産のためとはいえ、有名な千年の勝地が、一朝して虚しく廃滅してしまうことを嘆き、懐紙を取り出し、税所に一首の歌を諳んじます。


「音に聞く高師の濱のはま松も
  世のあた波はのかれさりけり」

この歌をもらい、税所は返歌を大久保に送ります。

「いかにせん高嶺をろしのはけしさに
  なみたふるひしをののえそこれ」

税所は直ぐに伐採の停止を命じ、その後、税所はこの浜寺を公園にするため、太政官に申し出て、同年12月24日に許可されました。



浜寺に碑を建立、大久保の事蹟を残す

浜寺の惜松碑


その後、明治31年12月25日に「大久保右府詠歌碑開式」が行われ、惜松碑が立てられます。

明治31年12月29日の讀賣新聞の記事によると、発起人は、松本重太郎、西村捨三で、開式の当日は、菊池大坂県知事、高崎岡山県知事、西村大阪府参事官、田村大坂市長ら建碑賛助者、70人あまりが参列したといいます。


西村は、大久保の在世中に重用された人で、西村が府知事になるにあたり、思いを茲に致し、有志と計画し、浜寺公園に碑を建て、大久保の事蹟を残したそうです。


碑面の和歌は、松方の文字で大久保の歌が表面に書かれ、税所の撰文が裏に書かれています。


ちなみに大久保のこの和歌は、「小倉百人一首」にある「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れこそすれ」(祐子内親王家紀伊)からとったそう。


和歌で政治をするなんて、なんて洒落ているんだろう。

大久保が和歌で伝え、それをくみ取りすぐ中止した税所もすごいし、その後、西村がそれを残そうと碑を建てたエピソードも素敵ですね。




ちなみに、当時の讀賣新聞によると碑の石の産地は、「相州根府川産の自然石 高さ七尺」
「礎石は河内日下の滝の山巓より掘り出したる花崗岩長さ一丈五尺、幅四尺、重さ四千貫目」だそうです。




石碑の裏の税所篤の撰文

下記は、石碑の裏に書かれている税所の撰文です。
(変体仮名は現代かなに置き換えています。)
 こはいにし、明治六とせの夏の夕つかた、大久保利通の君と高師の濱みんとて、やとりをいてて、
はまの石に腰うちかけ、四方のけしきみわたすほど、松の林をなかば切りたるを見て、いかなる故にかといはるるに、近き頃士族授産の為にとて、払い下げたるなりとこたへければ、そはけしかることかな、かかる名所の松の幾百歳経たらんをことことくきりはらはんは、まことになさけなきわざなり。

ここのつかさともあるものの心なしとや云はんとて、たたう紙とりいてて書かれたる歌也

おのれもとりあえず、

いかにせん高嶺をろしのはけしさに
なみたふるひしをののえそこれ

といらへしてければ、何はとまれ、明日よりは、このことをやめさせてよ、京にかへらんうえは、ともかうもすへしとあるにやかてそをとめたりき、今残りたるはたまたまかの君のたまものといひへし。

このよし石にしるして後世に伝えんとて一言しるしてよと、すすむる人のあるにまかせつたなきをのがかへしの言の葉さへありのまま、書きしるせるは、さきにこの県に令たりしちあみなればなり

明治三十一年十月 子爵 税所 篤







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◆MAP
大阪府堺市西区浜寺公園町2丁目



◆参考文献
・「甲東逸話」(勝田孫弥/マツノ書店) 和泉濱寺の記念碑 92頁〜96P頁
・「讀賣新聞 1898年(明治31年)11月11日朝刊4頁」
・「讀賣新聞 1898年(明治31年)12月29日朝刊4頁」


 
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