大久保利通は、天保元年庚寅8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町に、薩摩藩士・大久保利世(子老)と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれました。
幼年の頃、家族と共に加治屋町(下加治屋町方限)に移住したといいます。誕生の記念碑も移り住んだ後の旧宅にあります。
甲東という号は、甲突川の東岸から身を起こしたので、それを号としたらしいです。
この碑があるのは、移住後育った加治屋町 |
実際の生誕の地は甲突橋を渡った高麗町に |
甲突橋から甲突川を望む |
今日は、大久保の誕生日ということで、幼年時代の彼の逸話を「甲東逸話」から紹介しようかと思います。
西郷は沈毅寡黙な麒麟児、大久保は剛邁不覊な悪戯者
「南洲は沈毅寡黙にして父老の間に愛撫せられた一個の麒麟児であった。
之に反して甲東は、其幼時において剛邁不覊、恰も(あたかも)猛虎の逸出したるが如き悪戯者で、殆ど制御に苦しむほどであったといふことである」
落ち着いてい物事に動じない、寡黙だった西郷。麒麟児って!?
大久保は、
剛邁(ごうまい)不覊(ふき)
読めません。。。
調べると、剛邁は、気性がつよく、人よりすぐれていること。
不覊は、自由奔放で束縛しえない、才知が人並はずれてすぐれていて,常規では律しきれないこと、らしい。
世間のイメージとは逆だったんですね。
ただ、西郷と大久保は3歳違うので、そこも考慮した方がいいかもしれません。
しかし悪戯者で、制御に苦しむほどって、、、
ということで、その悪戯エピソードも甲東逸話に載っていました。
【エピソード1】:温泉の噴射口で悪戯
12,3歳の頃、家の人と一緒に薩摩群にある入来温泉に言ったときのことだそうです。
「入来温泉は、熱湯が岩間から吹き出るので、之に程よく冷水を混和して浴客の用に供してゐたのであるが、甲東はいつしか之を悪戯の手段に應用することを覚えた。
男女の浴客が、着物を脱いで、将に浴槽に入らうとするのを見ると、彼は走つて熱湯の噴出口に到り、其處に跪き急に冷水を注いだり、急に熱湯を流したりして、浴客の困却する姿を見て、この上なき楽みとした。」
勝田先生、この上なき楽しみって!?
この章、腕白児(わんぱくボーイ)っていうタイトルだったんですが、、、
下2つと比べれば、まぁこれは可愛いものかと思います。
◆関連記事・リンク
→大久保利通生い立ちの地【加治屋町/薩摩藩/牧野伸顕誕生の碑】
→大久保利通生誕之地【鹿児島/高麗町/加治屋町】
→鹿児島の史跡一覧へ
→目次(sitmap)へ
→年表へ
→TOPへ
【エピソード2】:また入来温泉で今度は砂・石・木の葉で悪戯
「或時は、沙石木葉等を集めて、之を流れに投げ入れて浴中の客を騒がし、湯守の番人に追はれたときには、森に隠れ、山に潜み、その速かなること葦駄天の如く、其の姿を見出されることはなかつたといふことである。」
逃げ足めっちゃ早かったんですね。
【エピソード3】:櫻島で悪戯
「又、幼時、櫻島の温泉に連れて行かれ、家に出入の彦作といつた農家などは、甲東の悪戯に痛くなやまされた。
山に登つては、大きな焼石を轉がし(転がし)、村の人の困るのを見て喜んで笑つてゐたことが、甲東の親類の間に一つの語草として残つてゐる。」
火傷でヘタしたら死にます。。。
父、子老の教育は放任主義
そんな大久保の父(子老)の教育方法は、放任主義で子供を叱責することはなかったとか。
「男児乱暴なのは深く咎むることを要しないが、卑劣なる行為に至つては一歩も之を假借してはならない」と父談。
寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、冷静な理論家と言われる大久保さんですが、
子ども時代はかなりヤンチャだったようです。
◆関連記事・リンク
→大久保利通生い立ちの地【加治屋町/薩摩藩/牧野伸顕誕生の碑】
→大久保利通生誕之地【鹿児島/高麗町/加治屋町】
→鹿児島の史跡一覧へ
→目次(sitmap)へ
→年表へ
→TOPへ
◆参考文献
・「甲東逸話」(勝田孫弥/マツノ書店) 5P-6P、13P
・「大久保利通 維新前夜の群像5」(毛利敏彦/中央公論社)