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2014-11-04

裏霞ヶ関(三年町)の大久保利通邸はどこに?

2014-11-04
大久保利武(大久保利通の三男)の話に「裏霞ヶ関の今のベルギー公使館、あれが元の家で、今からみると誠に粗末極まる建築で、それでも今の公使館は多少増築改造もして、以前よりは立派になっておるし、庭園の模様などもまるで変わっております。」とあります。
(※「大久保利通(佐々木克/講談社学術文庫/2004)」206頁)


原敬も訪れていた裏霞ヶ関の大久保邸

利武の話によると、書斎は庭園に接した2階下にあったそうで、庭園には明治九年の同邸に御臨幸の際、上覧に叶いし御幸の桜、御幸の松があったとのこと。
大久保は来客に忙殺され、多くは客間や応接室にいて、書斎にいなかったそうです。


紀尾井坂の変があった際もこの裏霞ヶ関の自宅から赤坂仮皇居に訪れる際に起こっています。


また、余談ですが、原敬もベルギー公使館に暗殺事件前夜に訪れているそうです。
大久保利通の次男、牧野伸顕の案内で、大久保が変に倒れた際遺体を安置していた奥座敷を見たとか。



ヒントはベルギー公使館

今回は、利武の話にあるベルギー公使館に注目し、裏霞ヶ関の大久保邸がどこにあるのか調べてみました。

ネットサーフィンをしていると、現在の霞ヶ関・特許庁から首相官邸の辺り(?)にあったという記事を見つけ、早速行ってみることに。

総理官邸の説明板を見ると、、、、「明治3年鍋島家の所有地に…」という文言が。


総理官邸の説明板


総理官邸から特許庁の方を臨む

古地図にも鍋島邸が載っていたことを知っていたことから、どうやら現在の特許庁〜総理官邸にベルギー公使館があったというのは位置的にちょっとずれているのでは?ということで、再調査。

やはり、ネットで調べたのがアウトでした。


明治43年の古地図に!!

事前に古地図でも見ていたにもかかわらず、再度、ベルギー公使館を探すことにしました。
灯台下暗し、、「白耳義」、ベルギーって読むんですよね。
古地図ではこれに気がつかずスルーしていました。


明治43年の古地図、携帯番地入東京區分地圖 (麹町区之部)に載っていました。
裏霞ヶ関、三年町とあるので、間違いはなさそうです。


明治43年の地図、赤で囲っている部分がベルギー大使館

上の地図を拡大



明治16年の「五千分一東京図測量原図(東京府武蔵国麹町皇城及永田町近傍)」を調べると、ちゃんと大久保家と書いてありました。

赤丸で囲っている場所が大久保家







この位置だと今の衆議院別館〜内閣府庁舎あたりではないでしょうか。

赤丸部分が衆議院別館あたり

赤丸部分が、当時大久保邸があったあたり。その左側の道挟んだ場所が総理官邸で鍋島邸なので、上の古地図とも場所はあっているといえます。


青で囲っている部分が三年坂です。三年坂の下から衆議院別館〜内閣府庁舎の方角、この坂を上った先が大久保邸があった場所です。


三年坂を下から臨む

三年坂の案内板

裏には説明が書かれていました。


横関英一『江戸の坂東京の坂』によると、東京の三年坂は「その坂で転んだものは、すぐにその土を三度なめないと三年以内に死ぬ」という曰くがあるそうです。




オレンジ色が茱萸坂

下のは、茱萸坂(ぐみざか)から、大久保邸があった衆議院別館を臨んだ写真です。


茱萸坂の説明板




ちなみに、都内の大久保邸は裏霞ヶ関のほか、芝二本榎西町に別邸があり、こちらは三万坪の広大の敷地で広い農場もあったといいます。
こちらの邸宅では、一大果樹園があり、渡航の際海外から集めた果樹蔬菜や林檎、葡萄、西洋梨、茶園、桑畑があったそうです。
利武の話によると、暇があると大久保は家族や妹たちを呼び家族団欒をしたようです。




◆MAP:大久保利通邸跡(裏霞ヶ関)

より大きな地図で 大久保利通邸跡 を表示



◆参考文献
所蔵地図データベース
・五千分一東京図測量原図(東京府武蔵国麹町皇城及永田町近傍) 1883 (明治16) 東京都
・携帯番地入東京區分地圖 (麹町区之部) 1910 (明治43) 東京都
・「大久保利通」佐々木克 2004 講談社学術文庫


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