島津義弘が敗北した苦難と壮挙を偲ぶ明円寺詣り
片道約20Km、往復40Kmに及ぶ道のりを
「徒歩」で甲冑を着て参拝する行事だそうです。
その妙円寺詣りには、大久保利通、西郷隆盛もはじめ、鹿児島城下に住む下方限り地区に住む二才(にせ)や稚児たちが参拝したそうです。
大久保正助19歳、西郷吉之助22歳も参加
嘉永元年(1848年)の大久保利通(正助)の日記に妙円寺詣りのことが詳しく書かれていました。当時は旧暦なので、9月15日頃に行われていたとのこと。
ただ、この日記ではなぜか10月に妙円寺詣りをしています。
嘉永元年ということは、大久保は19歳。西郷は22歳の頃です。
若い頃の大久保の日記も小まめに書かれています。
大久保の日記は誰かに読まれることを意識して書かれたという説を目にしますが、個人的には”マメな性格”だっただけのような気がします。
手紙や書簡もきちんと箱に入れて保管していたようですし。
ちなみにこの頃の日記は、大正10年に息子の利武が市来川上の親戚の上で見つけられたもの。
そのため、大久保利通日記ではなく、大久保利通文書第9に載っています。(※マツノ書店版は入っています)
真面目な大久保少年の一面が垣間見える
以下はその日記より、なんとなく意訳してみました。(間違っていたらすみません。)
10月14日 晴甲甲
六ッ過(午前6時過ぎ)
起床。妙円寺参詣の日なので「中々懐古に堪えかね参詣致したく」気分。鎧が痛い。
長野玄氏へ一刻 太刀を借用。右側の鎧が痛いところも繕ってもらう。
四ッ時(午前10時頃)
出勤御暇(お休み)なので、森山氏(興兵衛)のところへ一刻(2時間)、黒麻を借用しにいったところ留守だった。
自宅へ帰った所、森山氏が来てくれ借りた。具足も借りた。
七ッ過(午後4時過ぎ)
「参詣官内門前より誠に見物多く候」
千石馬場についたところ、男女身分の差なく数多くの人がいた。
徐々に水上坂に着き、坂の上で恕兄(西郷たち)と約束があるので、一刻(2時間)ほど待つと、加治屋町の衆が来て同行した。
「月もおぼろにて、甲冑霜に映し、あたかも戦場に臨むに異ならず。志気自ら凛々」
恐れながら先君義弘公において関ヶ原の御難戦者を、明日の15日、当世の薩摩国下級藩士である我らがはばからず、治世戎衣(戦に出る服)を着るもの、旌旗を持ち、陣羽織を着て、各々がその場所へ志を持ち、参詣をする。
妙円寺伊集院の道は厳しくはばかるが一理ある。
薩人の幸せ安泰、天下よく治まっている訳は、人々が平和な生活を送っているからでも優れた天子が治めてるからでもない。義弘公の有り余る徳があるからこそで、有志の士がこの日に安閑徒然と耽って歓談していることは、すなわち罪人である。
懐に壮士手奉り、冑(かぶと)乱髪、鉢巻をし、
「礼拝の時、先公の御尊霊を感得、御喜悦たるべきか」
九ツ時(夜12時)
順次参詣し、伊集院町にて弁当など食べた。
七ッ時過ぎ(午前4時過ぎ)
帰着。加治屋町からは、平田氏(正十郎)、西郷氏(吉之助)、亀山氏(杢太夫)、東郷氏(吉左衛門)、福島氏(半之進)、上田氏が同行。
西田町橋にて別れて帰着したところ、父や家族が待ってくれていたので、疲労も忘れ、話をしてから休息した。
伊集院町にて、上方加治屋町の岩下直太朗という人が、自分に少々干渉したので、名前を覚えておいた。
六ッ過(午前6時過ぎ)
起床。妙円寺参詣の日なので「中々懐古に堪えかね参詣致したく」気分。鎧が痛い。
長野玄氏へ一刻 太刀を借用。右側の鎧が痛いところも繕ってもらう。
四ッ時(午前10時頃)
出勤御暇(お休み)なので、森山氏(興兵衛)のところへ一刻(2時間)、黒麻を借用しにいったところ留守だった。
自宅へ帰った所、森山氏が来てくれ借りた。具足も借りた。
七ッ過(午後4時過ぎ)
「参詣官内門前より誠に見物多く候」
千石馬場についたところ、男女身分の差なく数多くの人がいた。
徐々に水上坂に着き、坂の上で恕兄(西郷たち)と約束があるので、一刻(2時間)ほど待つと、加治屋町の衆が来て同行した。
「月もおぼろにて、甲冑霜に映し、あたかも戦場に臨むに異ならず。志気自ら凛々」
恐れながら先君義弘公において関ヶ原の御難戦者を、明日の15日、当世の薩摩国下級藩士である我らがはばからず、治世戎衣(戦に出る服)を着るもの、旌旗を持ち、陣羽織を着て、各々がその場所へ志を持ち、参詣をする。
妙円寺伊集院の道は厳しくはばかるが一理ある。
薩人の幸せ安泰、天下よく治まっている訳は、人々が平和な生活を送っているからでも優れた天子が治めてるからでもない。義弘公の有り余る徳があるからこそで、有志の士がこの日に安閑徒然と耽って歓談していることは、すなわち罪人である。
懐に壮士手奉り、冑(かぶと)乱髪、鉢巻をし、
「礼拝の時、先公の御尊霊を感得、御喜悦たるべきか」
誠是非所可坐止
九ツ時(夜12時)
順次参詣し、伊集院町にて弁当など食べた。
七ッ時過ぎ(午前4時過ぎ)
帰着。加治屋町からは、平田氏(正十郎)、西郷氏(吉之助)、亀山氏(杢太夫)、東郷氏(吉左衛門)、福島氏(半之進)、上田氏が同行。
西田町橋にて別れて帰着したところ、父や家族が待ってくれていたので、疲労も忘れ、話をしてから休息した。
伊集院町にて、上方加治屋町の岩下直太朗という人が、自分に少々干渉したので、名前を覚えておいた。
「安閑徒然と耽って歓談していることは、すなわち罪人」といっているところが、大久保らしい生真面目さです。
また、大久保の信心深さが伺えます。
現実主義者の多くは信心深さや宗教などを信じない人が多いですが(福沢諭吉など)、大久保は結構信心深い人だったようです。
すぐ訪ねに行く、大久保の行動力は既にこの時から
最後の「伊集院町にて、上方加治屋町の岩下直太朗という人が、自分に少々干渉してきたので…」とあり、この岩下直太朗に15日中にこのことを尋ねに行っています。日記によると岩下の間違いだったそうですが、すぐ尋ねに行く行動力は大久保らしいなと思ってしまいました。
40Km歩いて更に家族に妙円寺詣りの話をする、、、
昔の人はかなり健脚だと思いますが、大久保の逸話の中に、妙円寺詣り後に普通に出勤してきたという話もあり、今の人と比べると体力かなりあるんだなぁっと改めて思いました。
今もこの祭りは鹿児島で行われているようで、「蘇我の傘焼き」「義臣伝輪読会」と並び3大行事だそうです。
参考文献
・「大久保利通文書第9」日本史籍協会 昭和2 398頁
・「さつま人国史 幕末・明治編」桐野作人 南日本新聞社 2009
・「第64回妙円寺詣り行事大会・妙円寺詣りフェスタ2014」本物の旅かごしま 鹿児島県観光サイト
・「妙円寺詣り」日置市ホームページ
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