137年前、紀尾井坂の変で倒れました。
(2015/11/22 補足)
※この記事は、東京日日新聞と当時の人の証言をもとに記載しています。
大久保の所持していた手紙の1通は、明治11年5月13日付の楠本正隆書簡で、起業公債発行について書かれたものでした。
(関連:大久保利通の幕末明治当時の臨場感が伝わる〜「大久保利通とその時代」の企画展)
大久保は西郷の手紙を肌身離さず持っていた
明治11年5月27日付けの東京日日新聞によると、大久保は馬車に乗り、書状を披閲していた時にあったそう。
暴徒は大久保の右手を切り付け、大久保は慌てた様子もなく大声にて、「待て」と言いながら、右の書物を御用箱に入れたそうです。
兇徒の一人が、その時の一声が、耳に残っていると糾問の際にいったとか。
紀尾井坂の変の際、大久保は西郷隆盛からの手紙を2通持っていました。
高島鞆之助によると、その手紙を三條実美が見たいと入って、10日前に大久保から三條へ貸し、4,5日後手紙が大久保の元に戻ってきました。
その帰ってきたその手紙を紫の袱紗に包み、3、4日、肌身離さず持っていたそうです。
所持していた手紙はユーモアあふれる手紙
その手紙の内容は、同5月27日付けの東京日日新聞に下記のように紹介されています。
其一通は戊辰の春(日付は正月二十二日とせり)征東の師を発せらるる時外人が頼りに其挙を悪さまに本国政府へ云送る様子なるを西郷は察して王政復古の御趣意を分明に彼等に説諭するよう公の担任して周旋あらるるを望むとの文意にて
今一通は公が欧州より撮影を西郷へ送られし時の返信なり其文中に寫眞にて見たる処では余分丈夫とも受取られねば以来撮影は御無用の方然るべしなどかる詼謔(くわいぎやく)の手紙なるよし
今一通は公が欧州より撮影を西郷へ送られし時の返信なり其文中に寫眞にて見たる処では余分丈夫とも受取られねば以来撮影は御無用の方然るべしなどかる詼謔(くわいぎやく)の手紙なるよし
一通は、戊辰の春(明治元年1月22日)のもので、
鳥羽伏見の戦いの前に外国人が其の挙を悪いように本国政府へ伝える様子を西郷は察して、王政復古の趣意を明らかにするよう彼らに説明するよう、大久保への周旋を望むという内容です。
もう一通は、大久保が洋行の際、サンフランシスコで撮影した写真を西郷へ送りました。
その手紙の返信です。調べると明治5年2月15日付でした。(※注)
西郷が大久保の写真を見て、
「醜体を極まる、もう写真を取るのはやめなさい」
といった内容から始まります。
尚々貴兄の写真参り候処如何にも醜体を極候間もふは写真取は御取止下さるべく候
誠に御気の毒千萬に御座候
※「大久保利通文書. 第4」426頁誠に御気の毒千萬に御座候
大久保は洋行で髪を切り、ひげを伸ばし、背広を着て、
西洋人のような格好で撮った写真を送ったのでしょう。
西郷はその格好を見て、
「醜体を極まる、もう写真を取るのはやめなさい」と茶化したのは、
大久保と西郷の仲だから、西郷も遠慮なく言えることかもしれません。
また、どちらの手紙かはわからないのですが、高島の話では、三丈もある長い手紙だそうです。
一丈は約3mなので三丈ということは9m。
とても長い手紙です。
大久保の最期に西郷の手紙があったということ、最期に持っていた手紙が二人の仲を伺えるものだというのも、何か二人の縁の繋がりの深さを感じました。
(※)東京日日新聞には、1通は、戊辰の春(明治元年1月22日)のもの、1通は、大久保が洋行の際、サンフランシスコで撮影した写真を西郷へのものと、この2通持っていたと記載されていますが、大久保の所持していた手紙の1通は、明治11年5月13日付の楠本正隆書簡で、起業公債発行について書かれたものでした。
そのため、この東京日日新聞と当時の人の証言自体の信ぴょう性が不明瞭な状態です。(2015/12/31 追記)
◆関連ページ
・大久保利通が死の直前に山吉盛典に伝えた未来〜済世遺言
・書翰の裏に書かれた岩倉具視の大久保利通への追悼の意
・紀尾井坂の変
・サイトマップ
◆参考文献
・「東京日日新聞」明治11年5月27日
・「大久保利通文書. 第9」昭和2年 日本史籍協会
・「大久保利通文書. 第4」昭和2年 日本史籍協会
・「大久保利通」佐々木克監修 講談社学術文庫 2004年
・「大久保利通」松原致遠 1912 新潮社