大坂北浜に大坂会議開催の地があります。 明治8年に、伊藤博文、井上馨の仲介により、 大久保利通、木戸孝允、板垣退助の協議が大坂北浜の料亭「加賀伊」(現)で行われました。 木戸孝允より大阪会議の成功を祝い「花外楼」の名前を贈られる 大阪会議開催の地のビルに、大久保利通...
◆大坂会議開催の地 (花外楼)【大坂北浜/大久保利通/木戸孝允/板垣退助/伊藤博文/井上馨】
2015-07-05
幕末維新ラボ、略して「バクラボ」。幕末維新の三傑の一人、大久保利通(大久保一蔵)にフォーカスしたサイトです
大坂北浜に大坂会議開催の地があります。 明治8年に、伊藤博文、井上馨の仲介により、 大久保利通、木戸孝允、板垣退助の協議が大坂北浜の料亭「加賀伊」(現)で行われました。 木戸孝允より大阪会議の成功を祝い「花外楼」の名前を贈られる 大阪会議開催の地のビルに、大久保利通...
大久保利通が最期に書いた絶筆は、伊藤博文に宛てた手紙です。 その内容は大久保が、明治11年5月14日当時、太政官で地方官の進退府県の統合など、内務省官の重要問題を議定しようとし、伊藤博文、大隈重信などに参朝を告げたものでした。 紀尾井坂の変の30分前にしたためたものです。 ...
伊藤博文が大磯の滄浪閣で話した話の続きです。 (→(記事) 大久保利通は立憲政治を目指していた ① ) 大阪会議は実は、民間政客の意志によって成立したもののように伝えられていますが、 事実の真相を誤っていると伊藤は言っています。 国会の将来を思い木戸を推したい ...
伊藤博文が大磯の滄浪閣で話した話が「甲東逸話」に載っており、それが興味深いものだったので紹介します。 その内容は、大久保利通の死後、憲法制定の頃、板垣退助が演説された新聞記事を見て語ったもの。 大久保を最近でも専制主義の人という見方がありますが、そうではないと伊藤が語っていま...