その内容は、大久保利通の死後、憲法制定の頃、板垣退助が演説された新聞記事を見て語ったもの。
大久保を最近でも専制主義の人という見方がありますが、そうではないと伊藤が語っています。
大久保は先制主義の人は誤り??
当時の板垣退助演説の記事には、憲法制定の歴史の中、大久保が極端なる専制主義の人で、盛んに壓制政治を行い、立憲政治のことなどは、少しもその念頭になかったように述べてあり、
それについて、伊藤は、これは間違った話であり、
「板垣迫の如きは、かつて共に廟堂に列び立たれたことのある人である。
然るに大久保さんがかくの如き誤解を受けて居られることは、実に遺憾である。
歴史は事実を語り、大久保さんの心事が明白になる時が来るであろう。」
然るに大久保さんがかくの如き誤解を受けて居られることは、実に遺憾である。
歴史は事実を語り、大久保さんの心事が明白になる時が来るであろう。」
と語っています。
この話の中で、伊藤は注目すべき事を言っています。
・大久保は専制主義の人ではなく、斬新論者だった
・立憲政治を目指していた
・大阪会議は大久保の意志によって成立し、憲法制定は大久保と木戸の遺志だった
大久保利通は専制主義の人ではなく、斬新論者だった
伊藤の話によると、明治6年、岩倉使節団から帰国した年に、大久保は内務省創設の議案を提出。廟議はこれを受け入れ、伊藤含め5名が内務省設置に関する取調委員を命ぜられたときのことです。
大久保は伊藤に対し、日本の政体から地方行政等を話したといいます。
その際、大久保は、
「わが国の政体は、欧米先進の諸国にその範をとることは必要であるが、また深くわが国体とわが歴史とに鑑みなければならぬ。
政治の基礎を建設するには、先ず地方行政を整理進展することが必要である」といい、
その内容は、いわゆる斬新主義であったそうです。
「そのため結局は、国会を開いて、万機公論に決しなければならないが、それには順序がある。突飛な民選議院論には賛成することができない、予の意見は概略この通りである」と、
大久保は伊藤に話し、直接参考として記述されたものを渡しました。
その本を見ても大久保は、
「専制主義の人ではなく、誠に順序の立った、斬新論者であたことは明瞭」と
伊藤は語っています。
「大久保さんほど誤解された人も少ない」
また、大久保は欧米先進国の憲法政治を観察していましたが、「民間には民選議院の論がやかましくなり、まだ五箇条の御誓文の御趣意も押し広めてゆかなければならない形成だった。
これらの事は、現段階で政府が率先すべきである」といい、大久保は内務省の創設を非常に急がれていた、とのこと。
この話からも大久保は、最終的に国会を開設をし、立憲政治を目指していた、
ただ、欧米列強と比べ遅れている現在の状態では、民選議院論には賛成できなく、政治主導でそれを進める必要があると考えていたことがわかります。
伊藤は、次のように語っています。
「世の中に伝えられていることには、兎角事実の相違せることが多いものである。
大久保さんは長らく政府の体軸い立ち、国政上の盤根錯節(ばんこんさくせつ)を一身に引き受けて切り開かれたために、民間の政客に敵が多く、誤解も多かったが、
凡そ大久保さんほど誤解された人も少ないのである。」
大久保さんは長らく政府の体軸い立ち、国政上の盤根錯節(ばんこんさくせつ)を一身に引き受けて切り開かれたために、民間の政客に敵が多く、誤解も多かったが、
凡そ大久保さんほど誤解された人も少ないのである。」
大久保利通は立憲政治を目指していた!? ②に続きます。
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◆参考文献
・「甲東逸話」勝田孫弥、富山房、昭和3