BAKULAB。

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2015-05-20

大久保利通が最期に書いた伊藤博文宛の手紙

2015-05-20
大久保利通が最期に書いた絶筆は、伊藤博文に宛てた手紙です。
その内容は大久保が、明治11年5月14日当時、太政官で地方官の進退府県の統合など、内務省官の重要問題を議定しようとし、伊藤博文、大隈重信などに参朝を告げたものでした。

紀尾井坂の変の30分前にしたためたものです。


大久保利通は地方官の改革を考えていた

この手紙について、伊藤博文が談話として残しています。


伊藤の談話によると、当時大久保は、「地方官を淘汰しなければならぬという考えを持っていた。この時分は松田道之(後東京府知事)などが働いていたが、地方官を淘汰しなければいかぬ。老朽不能はいかぬ。」と言っていたそうです。

そして、伊藤に、「君は実際の会議を担当しているし、人物もよくわかっているだろうから、意見を持ってきてくれ」といいます。

その会議が終わってから、地方官の更迭について評議が起こりますが、伊藤いわく、
大久保公は自ら重く執って盲目判を捺す様なことは容易にされなかったとのこと。

明治11年5月13日、大久保は伊藤の榎坂の邸に訪れ、「地方官の事も未だ悉く決断して居らぬから、君も忙しかろうけれども明日の評議には是非出てくれ。君が出てくれなければ困る」と伊藤に伝えます。

伊藤は、評議に出ることを承諾しました。


絶筆は伊藤博文に参朝のお願いをした手紙

翌朝、佐々木高行、高崎正風の二人がやってきて、宮内省の侍補(明治天皇の補佐・指導を目的とした宮内庁の役職)について話していると、大久保から伊藤の元に手紙が来たそうです。

昨日御約束申し上げ置き候通り大隈にも同時より
参内の約束致し置き候に付き御多忙と存じ候得共
暫時御参朝下され候様願い奉り候此の旨念じされ早々拝伯
五月十四日 利通
伊藤殿

「昨日、約束させていただいたとおり、大隈にも参内のお願いをしました。
ご多忙かと思いますが、参朝お願いします。」
といった内容でした。

伊藤は参朝するからと言って、二人に断り、赤坂の方から参内。
赤坂御所内の内閣に出ると、「今、大久保公が殺された」と聞きました。

伊藤は、「実に意外で、とても嘆き悲しく残念なことであり、至極国家の大事変だった」と語っています。


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◆参考文献
「大久保利通文書9」日本史籍協会 昭和2年
 
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