この年表は、「大久保利通(佐々木克/講談社学術文庫/2004)」と「大久保利通 維新前夜の群像(5)」(毛利敏彦/中央新書/1969)を参考にしています。
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※グレーの文字は主な事柄です。
◆◆◆ 年表 ◆◆◆
西暦(邦暦) | 年齢(数え) | 日 | 事柄 |
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1830(天保元)年 | 1歳 | 8月10日 | 薩摩国鹿児島城下高麗町に、藩士大久保利世の長男として生まれる。(※幼少の頃) |
1844(天保15)年 | 15歳 | 元服し、通称を正助、諱は利済と名乗る | |
1846(弘化三)年 | 17歳 | 藩の記録書役助となる | |
1850(嘉永三)年 | 21歳 | 4月8日 | 父利世が、お由羅騒動(高崎崩れ)に連座し、座敷牢入り 利通も免職となる |
10月4日 | 父利世、沖永良部島(鬼界島?)へ遠島となる | ||
1851(嘉永四)年 | 22歳 | 2月2日 | 島津斉彬が藩主になる |
近思録を輪読する会、のちの「誠忠組」の結集がはじまる | |||
1853(嘉永六)年 | 24歳 | 5月 | 謹慎を解かれ記録所蔵役となる |
6月 | ペリー来航 | ||
1857(安政四)年 | 28歳 | 11月1日 | 徒目付となる |
12月 | 早崎満寿子と結婚 | ||
1858(安政五)年 | 29歳 | 7月16日 | 島津斉彬死去 |
9月 | 安政の大獄 西郷隆盛は月照と入水、遠島となる | ||
12月 | 同志と突出計画を企てる、島津久光に接近をはかる | ||
1859(安政六)年 | 30歳 | 7月7日 | 長男彦之進生まれる |
11月5日 | 藩主愉書をうけ突出計画中止 この頃から、利通、岩下佐次右衛門を中心とした有志集団を「誠忠組」と称する | ||
1860(蔓延元)年 | 31歳 | 3月3日 | 桜田門外の変で井伊直弼暗殺 |
3月11日 | 久光と初会見 | ||
閨3月 | 勘定方小頭となる | ||
1861(文久元)年 | 32歳 | 10月22日 | 次男伸熊生まれる |
11月 | 御小納戸に抜擢、藩政中核に参画。家格は一代新番となる | ||
12月28日 | 鹿児島を経つ。始めての上京 この頃(12月15日〜1月中旬頃)、久光から一蔵の名を賜り通称を改める | ||
1862(文久二)年 | 33歳 | 1月13日 | 京都着。14日近衛忠煕(このえただひろ)、近衛忠房(ただふさ)と面会。(※wikipediaに飛びます。) 公武合体論への協力(久光上京)について話し合う |
3月16日 | 久光一千の藩兵を率いて鹿児島発。上京公武周旋を開始 利通も久光に従い鹿児島発、京都へ向かう | ||
4月9日 | 兵庫の海岸で久光の処分に従うよう西郷を説得 | ||
4月23日 | 寺田屋事件 利通、事件前の説得、事件後の始末にあたる | ||
5月6日 | 始めて岩倉具視と会う | ||
5月20日 | 御小納戸頭取に昇進 | ||
5月21日 | 大久保、久光の周旋が実を結び勅許が降りる(「三事策」) | ||
5月22日 | 久光に従い京都発、江戸に向かう 大原勅使、江戸へ向かう | ||
6月7日 | 江戸着。幕政改革に奔走する | ||
6月12日 | 長州藩重臣の周布政之助らから接待(幕末の鴻門の会) | ||
6月26日 | 大原に対して老中殺害を示唆 (それを受け、大原は老中板倉と脇坂安宅に、勅命を受けることを説得) | ||
7月6日 | 一橋慶喜、将軍後見職に任命。7月9日 松平春嶽、政事総裁職に任命 | ||
8月21日 | 江戸発。生麦事件。利通、藩士の鎮静にあたる この事件に対する藩の見解としての報告書を作成 | ||
閨8月22日 | 参勤交代制の緩和 | ||
9月7日 | 鹿児島帰着 | ||
9月30日 | 御用取次見習となる | ||
12月9日 | 鹿児島発。京都へ | ||
12月25日 | 京都発。江戸へ | ||
1863(文久三)年 | 34歳 | 1月3日 | 江戸着。松平春嶽、山内容堂に会い、将軍上洛延期を建言 |
1月9日 | 江戸発、鹿児島へ | ||
2月10日 | 御側役(御小納戸頭取兼任)に昇進 | ||
3月 | 将軍上洛 | ||
5月10日 | 父利世死去 | ||
7月2日〜3日 | 薩英戦争に参加 | ||
8月18日 | 八月十八日の政変 (藩首脳部は京都滞在せず。利通は鹿児島で政変計画に参画(?)) | ||
9月12日 | 久光に従い鹿児島発、上京 | ||
10月20日 | 江戸で薩英講話にあたる | ||
1864(元治元)年 | 35歳 | 1月 | 参預会議開催 |
3月 | 参預会議分解。公武合体運動行き溜まり | ||
4月18日 | 久光に従い京都発 | ||
5月9日 | 鹿児島着 | ||
8月24日 | 母ふく子死去。藩政改革に尽力 | ||
7月19日 | 禁門の変 | ||
7月23日 | 征長令 | ||
8月 | 長州征伐不可の建言 | ||
8月5日 | 馬関戦争 | ||
9月1日 | 参勤交代制復旧 | ||
1865(慶応元)年 | 36歳 | 1月 | 第1次征長終結 |
1月下旬〜5月頃 | 利通と改諱する | ||
1月25日 | 鹿児島発 | ||
2月7日 | 京都着(五卿問題、参勤交代について宮廷工作) | ||
3月22日 | 京都発 | ||
4月3日 | 鹿児島着 | ||
5月21日 | 鹿児島発 | ||
閨5月10日 | 京都着(長州再征反対運動) | ||
6月末 | 京都発 | ||
7月8日 | 鹿児島着 | ||
8月末 | 鹿児島発 | ||
9月初 | 京都着 | ||
9月21日 | 長州再征勅許 | ||
9月24日 | 京都を立ち、福井へ 長州再征勅許に反対 藩論を「割拠」(*)にすべしと藩首脳部に進言するため、利通の手紙を持ち西郷が京都を立つ 同様の内容を伝えるべく坂本龍馬を長州に派遣(薩長同盟の原点) | ||
9月27日 | 松平春嶽に面会 | ||
10月3日 | 京都着 | ||
1866(慶応二)年 | 37歳 | 1月21日 | 京都発 |
1月22日 | 薩長盟約成立 | ||
2月1日 | 鹿児島着 | ||
2月21日 | 鹿児島発 | ||
3月初 | 京都着(この頃からおゆうと京都の借家で生活) | ||
4月14日 | 大阪城で老中板倉勝静に長州征伐反対、薩摩藩の出兵拒否を伝える | ||
6月7日 | 第2事長州征伐。幕府軍と長州軍の戦闘開始 | ||
7月20日 | 将軍家元死去 | ||
8月21日 | 征長休戦 | ||
9月27日 | 近衛家に家臣同様に出入りすることを許される | ||
10月6日 | 近衛忠房に慶喜の将軍宣下の延期を建言 | ||
12月5日 | 徳川慶喜十五代将軍に就任 | ||
12月25日 | 孝明天皇死去 | ||
1867(慶応三)年 | 38歳 | 1月9日 | 明治天皇、践祚の儀を行い皇位に就く |
1月 | 兵庫開港をめぐる四候会議の画策をする | ||
4月12日 | 久光上京。慶喜から将軍職を剥奪すべきと建言 | ||
5月24日 | 兵庫開港の勅許 | ||
6月22日 | 小松、西郷と土佐の後藤象二郎らと会談。薩土盟約を結ぶ | ||
8月14日 | 小松、西郷と長州の柏村数馬と面会。武力討幕を背景とする新政府樹立の政変計画を打ち明ける | ||
9月17日 | 長州藩主父子に面会、武力討伐計画について話す | ||
9月19日 | 薩長両藩出兵協定を結ぶ | ||
10月13日 | 討幕の密勅を三条実愛から受け取る | ||
10月14日 | 大政奉還 | ||
10月17日 | 京都発 | ||
10月26日 | 鹿児島着。藩主に面会。出兵準備を進める | ||
11月10日 | 鹿児島発 | ||
11月12日 | 土佐の山内容堂に面会、上京を要請 | ||
11月15日 | 京都着 | ||
11月27日 | 松平春嶽に面会し新政府創設について議論 | ||
12月6日 | 岩倉、西郷らと王政復古の決行日を12月9日と決定 | ||
12月9日 | 王政復古の大号令 小御所会議に出席 | ||
12月12日 | 新政府参与に命じられる |
(*)それぞれが自分の領地を活動の本拠点として勢力を張ること