久光が千人の兵を連れて、公武合体の改革を実現しようとした、道中。 先発隊で下関に待てと言われた西郷ですが、京都の尊攘激派の志士たちを抑えるために、命令を背き、上京してしまいます。 西郷を追った大久保は、西郷の状況を聞き、ひとまず安心。 そして、兵庫に戻ったのですが… 続...
幕末維新ラボ、略して「バクラボ」。幕末維新の三傑の一人、大久保利通(大久保一蔵)にフォーカスしたサイトです
久光が千人の兵を連れて、公武合体の改革を実現しようとした、道中。 先発隊で下関に待てと言われた西郷ですが、京都の尊攘激派の志士たちを抑えるために、命令を背き、上京してしまいます。 西郷を追った大久保は、西郷の状況を聞き、ひとまず安心。 そして、兵庫に戻ったのですが… 続...
文久2年、久光が1000人の兵を連れ、公武合体の改革を幕府に受け入れてもらうため、上京時、先発で行った西郷ですが、京都の尊攘激派たちを抑えるため、「下関で待て」という久光の命令を背き、上京してしまいます。 前回、前々回の続きです。 → ①西郷帰還と薩摩出発まで → ②下関...
薩摩藩の国夫、島津久光は、一千人の藩兵を率いて鹿児島を上京します。 その計画は、幕府に改革を求める一種のクーデターでした。 その先発として、文久2年3月、村田新八、森山新蔵らが先発で九州各藩の形成を視察して下関で待機、、するはずだったのだが、西郷は、命令を聞かず、上京をしてし...
今年、2017年9月24日は、西南戦争終結から140年、つまり、西郷隆盛没後140年の年になります。 そしてその2日後の9月26日は、大久保公の生まれた年。 そこで、今回は、西郷と大久保に焦点を当てた逸話について紹介します。 文久2年のこと。薩摩藩第29代藩主、島津...
大久保利通は、死後に莫大な借金を残すほど私利私欲がない人でした。 よく、大久保は、薩摩人ぽくないと言われることもありますが、 私は、私利私欲のために動かない、お金に欲がないのが、やはり薩摩の武士らしい武士だなっと思います。 そんな大久保利通の人柄が現れる名言、格言につい...
8月10日(9月26日)は大久保利道が生まれた日です。 天保元年庚寅(1830年)今から、185年前に薩摩藩(現在の鹿児島県)に生まれました。 昨年は、大久保の子どもの頃の逸話を紹介しましたが、今回は、"豪傑、大久保利道"ということで、大久保の豪傑っぷり...
本日、5月14日は大久保利通の命日です。 137年前、紀尾井坂の変で倒れました。 (2015/11/22 補足) ※この記事は、東京日日新聞と当時の人の証言をもとに記載しています。 大久保の所持していた手紙の1通は、明治11年5月13日付の楠本正隆書簡で、起業公債発行に...
大久保の有名な逸話で、島津久光に取り入る為に、囲碁を習ったという話があります。 吉祥院に囲碁を習い、久光の碁の相手に 島津斉彬が逝去されたのが、安政五年の七月。 大久保がリーダーの誠忠組で突出計画が出たのも、それから半年も経っていないときでした。 藩主は、...
江戸開城において、西郷隆盛が江戸に総督府参謀として向かう前に、このような書翰を大久保利通から受け取っています。 恭順をしているなら寛大な思し召しを 徳川氏処分に関する意見書 明治元年二月 一 恭順の廉を以って慶喜処分の儀 寛大仁恕の思食(思し召し)を以って死一等を滅...
堀次郎(伊地知良馨)の日記の日記にある内容で、 西郷吉之助(西郷隆盛)と大久保正助(大久保利通)の逸話にこんな話があります。 自分が死んだら代わりは大久保しかいない 安政年間、西郷隆盛が将軍継嗣問題や幕政改革などに国事に奔走していたころ、 井伊直弼の大老就任に...
あけましておめでとうございます。 新年1本目はどうしようかと悩んだのですが、今日飲んだ芋焼酎が小松帯刀だったので、大久保利通から小松帯刀への手紙を紹介します。 小松帯刀は、薩摩藩の家老で、幕末期、大久保、西郷と共に活躍しています。 京都から帰藩の際に小松へ送った二首...
11月23日「大相撲九州場所・千秋楽」が行われ横綱白鵬が、横綱鶴竜を下し、大鵬に並ぶ歴代最多32回目の優勝を飾りました。 大久保と明治天皇が相撲という伝統文化を守った!? その優勝の際のインタビューの中で、 「明治時代の初期。大久保利通という武士と明治天皇が(相撲という...
今現在も10月の第4週になると行われている「妙円寺詣り」は、鹿児島市内から日置市伊集院町の妙円寺までの道のりを歩いて参拝する伝統行事。 島津義弘が敗北した苦難と壮挙を偲ぶ明円寺詣り 慶長5年関ヶ原の戦いで島津義弘が敗北したその苦難と壮挙を偲ぶために、 片道約20...
大久保一蔵(利通)と坂本龍馬の二人の仲が伺えるエピソードを紹介します。 龍馬、横井小楠に大久保に会った話を 徳富蘆花が、父、徳富一敬(いっけい・かずたか)の談話を聞いてまとめた「青山白雲」に、「沼山津村」という話があり、その中で坂本龍馬が、大久保に会った時の話が...
大久保利通は、天保元年庚寅8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町に、薩摩藩士・大久保利世(子老)と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれました。 幼年の頃、家族と共に加治屋町(下加治屋町方限)に移住したといいます。誕生の記念碑も移り住んだ後の旧宅にあり...
大坂に濱寺公園の惜松碑があります。 大坂の濱寺は数里に渡る白浜と松の名勝で、紀貫之や藤原定家なども、この美しい景勝地を眺め、和歌を残している場所です。 高師の濱の松が士族授産で伐採 そんな名勝が、明治五年、士族授産のため人民に払い下げ、同年の12月から樹木が伐採される...
薩英戦争時の大久保さんの動向が気になったので、調べてみました。 薩英戦争は、文久三年の七月二月から七月四日、生麦事件の解決を迫る英国と薩摩藩で行われた戦争。 生麦事件から足あとを追ったほうが面白いと思うのですが、ここでは、薩英戦争時の大久保さんを調べたので、アッ...
大久保一蔵の意外な一面が見れる逸話があります。 それは、 文久二年(1862)年、薩摩藩国父である島津久光が千の兵を連れて、上京したときのことです。 その際、薩摩藩国父、島津久光は朝廷の信頼を得て、勅書を受け取りました。 長州の周布政之助らとの会席 ...
明治11年5月14日、大久保は紀尾井坂の変で、石川県不平士族の手にかかり、暗殺されました。 最後の書簡は、 伊藤博文にその早朝宛てた手紙 だといわれていますが、その前日、大久保利通は岩倉具視宛に書簡を送っています。 書簡の裏側に描かれる岩倉具視の「大久保利通の死」を悼...