前回、前々回の続きです。
→①西郷帰還と薩摩出発まで
→②下関に到着、いなかった西郷
本日、9月26日は大久保利通公の誕生日です。
西郷を追い、京都へ
3月30日。大久保は朝乗船し、大坂に向かいます。余談ですが、大坂に向かう間、日記にいくつか大久保が詩を残しています。
君はため砕くこころはあら磯の
岩間にあたる浪は物かは
西郷のことを詠んだのでしょうか。岩間にあたる浪は物かは
大久保、西郷と会い「安心した」
4月5日には大坂に付き、4月6日には伏見についたのですが、西郷、森山、村田の3名は外出でいなかったとあります。大久保は伏見で西郷に会え、心配事の確認をとります。
「足元は京阪地方に集合する浪人たちと結託して久光公の滞京を計って暴挙せんとするという噂がある。
この噂を信じてはいないが、そのことを確認するために伏見に先発で来た」と大久保。
西郷は
「初めから久光公の尽力に対して一瞥の力を添えようとするものであり、義に背いて浪人たちと結託しようとするものではない。
しかしながら、浪人たちといえどもまた、これを排斥すべきものではない。
彼らは妻子と別れ、郷国を捨てて、身命を賭して上京したものである。
将来、大事を計らんとするには、彼らを指揮操縦するところがなくてはならない」
と。
大久保は、西郷の心情を聞いて、
「大島へ少々議論これ有り候ところ、いっぱい振はまり(頑張っている)故、まずまず安心致し候」
と日記に書いています。

明治以降の談話ですが、松村淳蔵によると、
西郷は出発する前に、大久保や堀次郎に対し、「これは浪士と同腹になってやらねばいかぬから、おいは大坂に行っても浪士どもと同腹で事をやる。
だからどんなことをしても気にとめるな」と言って出かけたといいます。
そのため、大久保は、万が一にも西郷が浪人たちと一緒に暴挙に出てしまうのではないか、という心配があり、手紙にこのことを匂わせる内容があったため、手紙を久光には伝えていないのではないか、と思われます。
安心した大久保は、4月7日大坂を立つ際に、八幡宮に参拝しています。
しかし、久光の怒りは治まらず
大久保が伏見で西郷の確認をしているころ、事態は悪化してしまいます。久光は中山を通じて、堀次郎と海江田信義からの報告を受けます。
「西郷吉之助は、浪士と一緒になって過激な発言をしたり、何かしたりしている」
中山はもともと西郷帰藩のために久光を説き伏せた恩人にもかかわらず、計画を反対し、その顔に泥を塗るようなことをした西郷にいい感情は持っていませんでした。
事実とは違う報告ですが、その報告を久光に上げています。
久光は烈火の如く怒ってしまいます。