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2017-09-25

大久保利通、西郷隆盛と心中!?決死の覚悟で挑む文久2年② 〜下関に到着、いなかった西郷

2017-09-25
薩摩藩の国夫、島津久光は、一千人の藩兵を率いて鹿児島を上京します。
その計画は、幕府に改革を求める一種のクーデターでした。
その先発として、文久2年3月、村田新八、森山新蔵らが先発で九州各藩の形成を視察して下関で待機、、するはずだったのだが、西郷は、命令を聞かず、上京をしてしまいます。

全国の尊皇攘夷運動が激化し、今にも暴徒化しそうだったためです。
久光は、あくまで「公武合体」のため上京をするのですが、多くの志士(薩摩も含め)が「倒幕」のため上京すると間違った認識をしていました。

京都は尊攘激派の志士たちで覆い尽くされていたのです。
西郷は、久光が来る前に彼らを抑えるために、先に上京することにしました。

この話は、前回の続きです。
①西郷帰還と薩摩出発まで



下関で待機していなかった西郷!!置き手紙はあった!?

3月28日 下関に着きます。
その日の夕方、奈良原、吉井、松方が会いに、白石兄弟が大久保に会いに来ます。

大久保は、いると思っていた下関に西郷らがいないことに驚きます。

手紙が残っていなく、勝手に命令を背いたため、罰を受けることになりますが、
実際は手紙は存在し、それを何らかの理由で大久保は久光らに報告しなかったのではないでしょうか。


29日の大久保の日記を見ると、

一昨夜、白石正一郎より一封落手(昨日(28日)の夜、白石正一郎より手紙を一封受け取った)」とあり、その内容には、「いよいよ諸藩士、浪人、切迫。追々出坂大事、勢いこれ顧然たり」と記載されていたよう。
この手紙は、推測なのですが、西郷からの手紙では、と。

この時期に、下関で状況を報告する手紙を贈るのは、西郷の先発の目的が状況の確認だったことや、白石に依頼し大久保に手紙を贈ったのは西郷では、と思われます。


大久保は、手紙の一条が「御国元いささか憂ふる」ため、小松と中山に相談。
ついには、そのことで激論に及んだそうです。

この、切迫している上京のみの手紙なら、久光から隠す必要はなかったと思うのですが、
それ以外のことが書かれていたため、大久保は隠さざるを得なかったのではないでしょうか。

手紙自体は現存していないため、真相は不明です。



真相を確かめるため、ひとり大坂へ

大久保は、上記の切迫した事態を確かめること、西郷に直接会い事の心境を確認するために、先発を申し出て許可をもらっています。
「云々出坂被 仰付〜」と欠字で書かれているため、久光に願い出てOKをもらっていますね。

久光は、命令を聞かず京都に行った西郷に立腹。
前段の「地ゴロ」発言もあり、その怒りは相当なもの。
この計画は西郷ありと思っていた大久保にとって、こちらの誤解を解くためにも、大久保が先発で確認を申し出たに違いありません。



③につづく。
③伏見で西郷と会い、ひと安心!?

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①西郷帰還と薩摩出発まで

 
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