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2017-09-27

大久保利通、西郷隆盛と心中!?決死の覚悟で挑む文久2年④ 〜西郷と大久保の決断

2017-09-27
久光が千人の兵を連れて、公武合体の改革を実現しようとした、道中。
先発隊で下関に待てと言われた西郷ですが、京都の尊攘激派の志士たちを抑えるために、命令を背き、上京してしまいます。
西郷を追った大久保は、西郷の状況を聞き、ひとまず安心。
そして、兵庫に戻ったのですが…

続きものです。
①西郷帰還と薩摩出発まで
②下関に到着、いなかった西郷
③伏見で西郷と会い、ひと安心!?



不在で状態悪化!! 状況把握に必死の大久保

大久保は、4月8日、午前2時ごろ大蔵谷に舟が着きました。

まだ久光の行列は着いておらず、午前4時ごろ堀がついていたので、大久保は状況を確認。西郷の一件について、事情を知ります。

その日の大久保はなんとか状況を把握しようと必死なことが伺えます。

堀から事情を聞いた後、奈良原喜左衛門、海江田武次と会い、また、午後6時ごろ堀とちょっと会ったのですが、はっきりしない状態でした。
はっきりしないのは、虚偽の報告をした本人のためです。

大久保は、小松帯刀のところに行けば事情がわかるかと、小松のところへ行き、色々話を聞きます。
その帰りに堀と会ったので、一緒に宿に行って、大変な自体になったことを諭して責めたのだと思います。

この事態を聞いた大久保は、久光に西郷の誤解をとこうと試みたのですが、かえって怪しまれてしまう始末。
大久保は、この状況を大いに憂いているところに、状態を知らない西郷がひょっこり会いに来ます。

西郷は何も知らず、京都や大坂の様子をかたり、一挙して改革ができるといいます。


「刺し違えて潔く死を共に」大久保の決断と西郷の答え

大久保は、西郷に罪をきせるのは忍びない気持ちでした。
日記には、「心中中々堪え難く候」と書かれています。



浜辺に西郷を連れていき、決心して告げます。

「自分たちは以前から勤王の大義のもと、いくつもの困難を超え、今日に至ったけれど、
兄(西郷)は君公(久光)の怒りに触れてしまい、たぶん、処罰されてしまう。。。

それなら、目的を達成しようと、仕方がない。
むしろ、今ここで、兄と刺し違えて潔く死を共にしたい」


西郷はこれを聞いて、襟を正して大久保を諭します。

「それなら自分は君命に従って、鹿児島に帰ろうと思う。
兄が望むのは、早まらないでほしい。
自分がいないあと、誰が事にあたるのか」

西郷は、月照との心中で一人生き残った際に天命を悟り、安易に死を急がなくなったと言われています。


大久保は、西郷の決然たる覚悟をみて、”耦刺の意志”を翻して、西郷は命を奉じて帰藩することとなり、大久保は再び久光公に従って上京した。


大久保のその日の日記には、
「拙子も既に決断を申し入れ候。何分右通にて安心にてこの上なき」
と書かれています。



閑話休題、
耦刺=「二人で互いにさしちがえて死ぬ。」ことらしいのですが、「甲東逸話」の記述をそのまま持ってきました。

今現在まったく使われない単語のため、調べたのですが、
耦という時は、偶の旧漢字で、「むかいあう。たぐい。ともがら。なかま。つれあい」といった意味がある単語です。
ちょっと近い間柄で使うような気がしました。



その後、寺田屋騒動へ

話は戻り、4月10日、西郷、村田、森山は、鹿児島へ向けて船で護送され、大久保は、久光の列に戻り、大坂へ向かいます。

その後、西郷は、徳之島、沖永良部島へ遠島が命じられ、元治元年(1864年)2月28日まで、過ごします。


一方、西郷がいなくなった京都では、薩摩藩の志士同士の斬り合い、寺田屋騒動へ発展してしまいます。
ただ、この事件によって、朝廷の久光に対する信望は高まります。

そして、江戸に向かった久光たちは、目的であった公武合体政策の実現を果たします。




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その他、大久保の逸話はこちら
甲東先生逸話



参考
・「大久保利通」佐々木克監修 講談社学術文庫 2004年
・「大久保利通 維新前夜の群像(5)」毛利敏彦 中央公論新社 1969
・「大久保利通日記」日本史籍協会 東京大学出版会
・「甲東逸話」勝田孫弥 富山房 昭和3
・「幕末史」佐々木克 ちくま新書 2014年




 
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