BAKULAB。

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2015-04-16

真実はいかに〜大久保利通の「囲碁で出世」の逸話に迫る

2015-04-16
大久保の有名な逸話で、島津久光に取り入る為に、囲碁を習ったという話があります。


吉祥院に囲碁を習い、久光の碁の相手に


島津斉彬が逝去されたのが、安政五年の七月。
大久保がリーダーの誠忠組で突出計画が出たのも、それから半年も経っていないときでした。

藩主は、久光の子、島津忠徳(のちの忠義)が藩主になりましたが、斉彬の父、島津斉興は忠徳が若年であることを理由に再び藩政を掌握。
斉彬が力を入れていた集成館事業を廃止するなど、復古的な政策に転換していました。

当時の大久保は、志士が突出してもできることは僅かで、大義を成すためには、藩が一体となって行うべきと考えていました。

そして、今は島津成興が藩政を握っているが、近い将来、島津久光が藩政を握ると。
けれども、大久保は御徒目付。久光に直接会って話すことはできません。

久光は囲碁が好きで、吉祥院の住職に習っていました。
吉祥院の住職は、税所篤の兄。吉祥院は大久保の同志であるとともに、税所篤は大久保の終生の友人です。
大久保は税所篤に頼み、吉祥院に囲碁を習い、久光が読みたいといった本に久光への手紙を挟み、国事の難や建白の文章を記載。
それが久光の目に留まり、久光は大久保を碁に事を寄せて呼び寄せ、側に上がって碁の相手をするようになったといいます。

それからも度々久光と碁の相手をし、大久保と打つのが一番面白いと言っています。
「大久保はお世辞まけをせぬから面白い」だとか。


若き大久保、三番勝負で負ける

「島津久光に取り入る為に、囲碁を習いはじめた」と様々な大久保利通論で言われていますがが、果たしてそうでしょうか。
嘉永元年正月四日の大久保の日記に以下のような内容があります。

嘉永元年正月四日 陰天

今日は朝六ッ半に起床他出不致小座之邉り少々取こばめ、
八ッ前牧野氏訪られ、碁打ち相企三番打拙者勝負マケいたし候処、
それ成りにて取止め、そのうち税所喜三左衛門殿訪られ、喜平次殿は帰られ、
喜左衛門殿は段々咄共いたしさ候て、ハマ投相企て川上四郎左衛門殿四番九兵衛などと屋敷前にていたし後は
安愛寺前にてもいたし、大鐘近程遊び夜入近喜三左衛門殿は帰られ今夜は九ツ時に休息
(※「大久保利通文書. 第9」359頁)

大久保17歳の時の日記です。

ここでは、牧野喜平次が家にきて碁を打って三番勝負したが負けたとかかれています。
また、その後、税所喜三左衛門も訪れ、「ハマ投相企」ハマ(相手から取った石)を投げようと企てたとあります。

つまり、上手い下手は別として、以前から大久保は碁打ちでした。

この逸話の元ですが、おそらく報知新聞の記者である松方致遠が大久保と親交があった人にインタビューした記事だと思われます。
報知新聞のコーナーで明治43年から掲載され、それをまとめた底本を明治45年に「大久保利通」(新潮社)として発行されています。
その中に大久保の息子利武にインタビューしたものがあり、その内容が囲碁の逸話の元になっていると思われます。

利武のインタビュー記事に「大久保は以前から碁打ち」の内容がありますが、利武はまだ生まれていないため、誰かから聞いたものだと想定されます。
また、先ほど紹介した大久保の日記は1921年(大正十年)に発見されたものなので、この談話当時、利武は知りません。



囲碁は身分の高いものに進言する正道な手段

「久光に取り入ろうとして」の表現ですが、佐々木克氏によると、松原致遠が話を面白くするために書かれたもので、利武の談話が正確に表現されなかったのではないか、と指摘しています。

また、中国の歴史・故事にみられるように、囲碁は身分の高いものに進言する手段として用いられていたそうです。

中国では、囲碁は下位の者が、上位の者に意を達するための正道で、大久保もそれに倣ったといえます。



大久保は、生涯、碁を趣味とし、息子である牧野伸顕も下記のように言っています。
「娯楽は碁で、退屈したり、頭を使いすぎたりしたときは、碁を囲んで慰めていたようです。
日記を見ると、よほど碁が好きであったようで、そのほかには別に娯楽はなかったでしょう。
今の方円社長の岩崎建造などは始終父に追従していました。
碁ではいろいろの奇談もあるようです。」
(※「大久保利通」32頁)


囲碁で頭を休めるって、大久保らしいですね。

大久保の陰謀や策謀というイメージは、この逸話から盛り込まれることが大きい気がします。
「囲碁は下位のものが上位のものに意見をする正道」や囲碁を久光に取り入るために始めたのではないということは、今までの小説などで語られる大久保像のイメージが変わるのではないでしょうか?



参考文献
・「大久保利通文書. 第9」昭和2年 日本史籍協会
・「大久保利通」佐々木克監修 講談社学術文庫 2004年
・「大久保利通」松原致遠 1912 新潮社
 
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