BAKULAB。

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2014-11-15

悔しさ滲む!?大久保利通が明治六年の政変で三條実美へ突きつけた手紙

2014-11-15
国立国会図書館の企画展示「あの人の直筆」に行ってきました。
2014年10月18日(土)〜11月18日(火)までやっています。

幕末志士の充実した書翰類、大久保利通の書翰も

あの人の直筆ポスター

勝海舟の自画自賛の書翰や坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作らの書翰を集めた「吉田英吉関係文書」、徳川慶喜の書翰など、見応えありました。

近代デジタルライブラリーで見れるものも多いですが、やはり実際の目で見ると、感慨深いです。
もちろん大久保の書翰もありました。

事前に目録を見ていったので、明治6年10月17日の三条実美宛と書いてあったので、辞表に関してのものかなっと思っていたら、やはりそれでした。

明治六年の政変時の書翰です。
この書翰は、近代デジタルライブラリーで公開されています。


書簡の一部
小臣事量無くこの、
天恩を蒙り殊に 殿下の懸命に預ることまた浅からず實に感佩する所に候
然るに今日に至り恐縮の至りに堪ず候得共、奉職の目的、相立難く辞表差出候
暗愚にして漫汚重任候儀、今更赧顔至り極に御坐候、今日の事何様の御沙汰を拝承仕り候ても
断然、心決仕候付、速に御放免下さり候様、萬祷仕候、去りながら国家之事外に置たく候
心事毛頭御坐無く候間、もし禍端相開き候はば兵卒ども相成一死を以って萬分の
一死報したく微忠に付、其説に臨み候はば御垂憐を賜り候様、今より願い置き奉わり候
必ず進んで御依頼奉べく申上候、誠煌々々
十月十七日  利通
實美公閣下
尚々過日下され候、御書取憚りながら返上仕候付、御落手仰さるべく付候

感佩=かんぱい
深く心に感じて忘れないこと
赧顔=顔を赤くする、恥じること



明治6年の政変でこの手紙までの経緯

明治6年の政変は別途書きたいので、ここではさわりだけにします。

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【手紙までの経緯】(明治6年の政変)

・8月17日 西郷隆盛を朝鮮へ全権大使とする案が会議で決定。
(明治天皇は外遊組帰国まで待つようにと、一旦保留)

・9月13日 岩倉一行が横浜に到着

・西郷、板垣らは早く会議をと急き立てる。

・大久保は、参議になることは二度断っている。(西郷と対決しにくい)
・10月12日 結局、岩倉らに押され、決心の元、参議を受けた。

・10月14日 再度、会議が開かれ「西郷の使節派遣について検討」
大久保、「内治優先」と唱える。反対派、大久保、岩倉、木戸、大隈、小木。
西郷、「派遣は規定の事実」。板垣、後藤、江藤、副島が賛成。
木戸欠席のため、決議ならず。

・10月15日、西郷欠席
しかし、西郷の意見書の中に「意見が通らなければ辞職する」と記載
大久保は外征先決は重税や外積を増やし民力を激減させると説く。
反対派は反論できず。
だが、議長の三条、岩倉は「西郷の見込み通り」と派遣を決める

・10月17日、大久保辞表
▲この日の三条に宛てた手紙。
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自分が死しても驚かないように

大久保は、参議を受ける際、10月8日その決意を息子(利和、伸顕)宛に送っています。内容は、海外で父の変を聞いても驚かないように、といった遺書とも取れる内容の手紙を送っていました。
(十月八日付、「大久保利通文書 第5」18頁)

それほど決心して、挑んでいる会議。
岩倉も三条も「内治優先」だったはずなのですが、10月15日の会議では派遣を決めてしまいます。

それを受け、大久保は17日、辞表を提出。
岩倉、三条宛に手紙を出しています。

私感なのですが、大久保の手紙からは、怒りや悔しさが出ているような気がします。


そういえば、余談ですが、この書翰の近くに木戸の書翰もあったのですが、長さがなんと7mでした。政府への愚痴とかも入っているらしく、そちらもとても気になりました。
目録には、「46 木戸孝允 木戸孝允書簡 明治5(1872)年9月14日 井上馨関係文書357」とあったので、今度、調べてみようかと思います。
(ただ7mも読めないと思いますが^^;)



◆参考
・国立国会図書館 企画展示「あの人の直筆
あの人の手紙出展資料
・「大久保利通書簡 明治6(1873)年10月17日 三条家文書」大久保利通
・「大久保利通文書 第5」日本史籍協会 昭和2 71頁
・「歴史人No38 保存版特集 戊辰戦争と明治維新の真実」 2013年11月 
・「明治六年政変」毛利敏彦 中央公論社 1979


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