西郷吉之助(西郷隆盛)と大久保正助(大久保利通)の逸話にこんな話があります。
自分が死んだら代わりは大久保しかいない
安政年間、西郷隆盛が将軍継嗣問題や幕政改革などに国事に奔走していたころ、井伊直弼の大老就任による圧力などもあり、進退に窮したことが、度々ありました。
堀次郎は西郷隆盛に対し、
「この際とりいそぎ大久保の東上を促して共に事を当たってもらったら」
と進言したところ、
西郷隆盛は即座に、
「いや、大久保は、予の畏友で、唯一の手駒である。
自分がもし事に死することでもあったら、自分に代わって起つべき者は大久保である。
今もし彼が吾々と共に江戸において斃れるようなことになれば、唯一の手駒もなくなって後はどうにもならぬのではないか」
といって、大久保の東上は、とりやめになったといいます。
西郷の大久保への信頼はこの頃から高かった
この話は、藩主島津斉彬が、一橋派か紀州派の将軍継嗣問題で一橋慶喜を将軍に押し、幕政改革の運動をしていた時のこと。西郷隆盛は、御庭役として斉彬の命により活動をしていたときのことです。
大久保利通は国元(鹿児島)で、記録所蔵役ー→徒目付として、仕事をしていました。
「自分がもし事に死することでもあったら、自分に代わって起つべき者は大久保である。」という言葉から伺えるように、
西郷の大久保への信頼は、この頃からも高かったといえます。
そういえば、明治六年の政変後も、政府を去る西郷が「大久保がいるから大丈夫だ」
と言っていますね。
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◆参考文献
・「大西郷の逸話」西田実 南方新社