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2014-03-01

大久保一蔵の意外な一面!必殺畳回し(笑)幕末鴻門の会

2014-03-01
大久保一蔵の意外な一面が見れる逸話があります。

それは、文久二年(1862)年、薩摩藩国父である島津久光が千の兵を連れて、上京したときのことです。
その際、薩摩藩国父、島津久光は朝廷の信頼を得て、勅書を受け取りました。

長州の周布政之助らとの会席

勅書を持って、大原勅使は江戸へ。
久光はじめ、大久保一蔵(利通)も大原勅使の護衛のため、江戸に向かいます。

6月10日、大原は登城して将軍徳川家茂に朝旨を伝えます。

ちょうどそのとき、長州藩主の毛利慶親は、久光等を避けるように江戸を後にしてしまいます。
当然、薩摩藩は「挨拶もしないとは非礼ではないか」と懸念を抱いていました。
また、寺田屋事変を避難するような文言が毛利定広にあてられた勅諚にあったため、不快感を薩摩藩は抱いていたようです。

そこで、長州の周布政之助らはそれら疑念を氷解し薩摩藩と融和をはかろうと、小幡彦七と共に堀小太郎(伊知地貞馨)・大久保一蔵等を酔月楼に誘います。

「偉人周布政之助翁伝」に、その会席の内容が書かれています。
6月10日の話です。翁は周布のことを指します。


酔っぱらい歌を歌う

「依りて約の如く、翁は小太郎に面会して長州の実態を弁説せしが、今また藩公の命を以て、勅使に謁して謗詩似寄一件等をも解陳したので、重徳以下大に諒知する所あったのである。

されど、翁は勅使の東着に先だちて藩公の発駕せしは、薩摩藩士の感情を害したるを察し、其の融和を謀らんとして苦慮斡旋し、小幡彦七と共に小太郎・大久保一郎等を酔月楼に誘ひて閑話し、互に俚歌を謡ひ詩作を試み、各々霑醉して歌を書した。

俚歌(りか)=民間で流行する歌。俚謡。
霑醉(てんすい)=全身に染みわたるほど酔う
(偉人周布政之助翁伝 148

酒宴もたけなわでしょうか。
「互に俚歌を謡ひ詩作を試み、各々霑醉して歌を書した。」

無駄話をし互いに民間の流行曲を歌い、詩を作り、全身に染みわたるほど酔っぱらって歌を書いたそうです。


酔っ払って、歌ったんですか??流行曲を。
互いにってことは、大久保も????

若気の至りでしょうか。
あの大久保が全身に染みわたるほど酔って、歌っていることを想像したら、ちょっと面白いですね。


愛宕山へ登って景色を楽しむ

大久保日記にも、この件書かれていています。
六月十日晴

「一、今日八後より堀同道西向御邸へ立寄酔月楼へ出張長藩周布政之助小幡彦七へ面会
種々論談後及俗興候夜九ツ時分帰邸」
「一、愛宕山へ登り暫時眺望絶景之」
(大久保利通日記(上巻)155)(※注意

相変わらず、さっぱりした内容ですが、「種々論談した後、俗興及び候」ということは、歌ったんですかね。(笑)
この日、愛宕山に行っていたようです。


再度、川長楼で話し合いで険悪な雰囲気に

12日に再度、周布らと大久保らが会います。

偉人周布政之助翁伝によると、長州側は、小幡彦七・宍戸(ししど)九兵衛・来島又兵衛、薩摩側は、大久保一蔵・堀小太郎で、柳橋の川長楼で話したようです。

周布は、長藩の公武周旋に関する趣旨を説明。
薩長間で公武周旋に行き違いがあったが、これも至誠によるものだといい、「若し遺言あらんには、僕自ら屠腹すべし」(もし、遺言(いげん)があれば、自ら切腹する覚悟だ)と、決心を示します。

それに対し、堀は、「直に膝を進めて足下屠腹せよ」(じゃあ、おまえ切腹してみろよ)と揶揄します。

険悪な空気が薩長間に流れます。

すかさず、大久保は堀に対し「大呵して之を止めた」(嗜めて(怒鳴って?)これを止めた)そう。
堀を嗜める大久保!!
これはまずい方向に行きかねない、と冷静な大久保は感じていたことでしょう。


意外な大久保一蔵の必殺技が炸裂!

堀の「不遜傲慢の態度」に怒った周布は堀を斬ろうとして剣舞を舞い始めます。
周布さんの酔っぱらいは質が悪い。

それを見た小幡は、身をもってこれを遮り、宍戸も剣を持って(薩摩側を)睨みつけます。

一瞬触発!!!
このままだと斬り合いになりかねません。
その状況を見ていた大久保は、回避するためにある必殺技を打ち出します。

「薩州の畳踊りをお目にかける」
なんと畳をひっぺがし、手で回し始めました。


大久保の意外な行動に毒気を抜かれ、けが人もなく無事に宴会を終わらせることが出来たといいます。

この事件は、漢の皇祖が梁の項羽と鴻門の宴会の状況とあまりに似ているため、幕末の「鴻門の会」と呼ばれているようです。


大久保ファンには有名な畳回し(笑)
それにしても、大久保のイメージが、だいぶ変わりますよね。
畳回しは大久保が若い頃習っていた柔術に畳を剥がす練習があり、そこから得た技だとか。


「偉人周布政之助翁伝」では、
「一蔵また畳を撥き、之を掌上に弄して其の力を示した。」
って書かれているんですが、
畳回しで力って示せるんですかね。

どちらかというと、場の雰囲気を変えるために大久保が出した必殺技だったと思います。


周布等と隅田川に遊ぶ

その日の大久保の日記
六月十二日晴

「一、今日亦々西向へ差堀同道万年屋と申船問屋へ差超候 長藩周布政之助先来船用意有之乗船隅田川登り
風景可愛一亭へ上陸 此処へ宍戸九郎兵衛小幡彦七外に一人先来頗る及暴論候 今夜九ツ前帰邸」
(大久保利通日記(上巻)155頁)

「一人先来頗る及暴論候」に大久保の畳回しが入っているんですね。


大久保日記のこの日の解説?目次に、
「周布等と隅田川に遊ぶ」
って書かれているのが個人的にツボでした。




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◆参考文献・参考資料
・「偉人周布政之助翁伝」妻木忠太 著 有朋堂書店 昭和6
「日本史籍協会行書26 大久保利通日記1」日本史籍協会 東京大学出版会 昭和2

 
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