薩英戦争時の大久保さんの動向が気になったので、調べてみました。
薩英戦争は、文久三年の七月二月から七月四日、生麦事件の解決を迫る英国と薩摩藩で行われた戦争。
生麦事件から足あとを追ったほうが面白いと思うのですが、ここでは、薩英戦争時の大久保さんを調べたので、アップしておこうかと思います。
大久保は、薩英戦争の作戦指揮にあたっていた
忠義公史料によると、開戦前の六月二八日に、国父久光公、忠義公に従い、英艦隊の巡覧に向かっていたようです。
「御巡覧筋、太守公ニモ前以テ二ノ丸御本門ヨリ御出馬、国父公及公子方ハ二ノ丸御門ヨリ御出、御城下ヨリ島津又八郎加治木領主庭前ヨリ
枡形筋、其他各所巡覧セラレタリ、扈従ニハ小松帯刀・御側役島津主殿・山口直記・中山中左衛門・大久保一蔵その他御近習大小史、或ハ本田彌右衛門・木場傅内等ハ御使番役ニテ、令字ノ差物ヲ携、歩騎数百騎列伍厳粛タリ」
(忠義公史料 市来四郎編 文久三年六月ノ二止 三九一 艦隊ノ挙動)
大久保は、薩英戦争の作戦指揮にあたっていたよう。
英国艦隊の視察の際、屋根から滑って落ちた
ちなみに、英国艦隊の視察のため、屋根にのぼった大久保は、
屋根から滑って落ちて、それを見られて、艦隊を恐れて腰を抜かしたと噂され、
とても困ったと晩年語っています。(「甲東逸話」)
大久保さんでも滑って転ぶんですね。
台風前だったから雨風強かったんでしょうか。
(ただ、大久保さんって大中神社での煙管忘れ(※)など、意外とそういうところがあるのかも!?)
砂揚場で指揮を、一番に大砲を発砲
また、薩英戦争の開戦日の七月二日には、「砂揚場」で指揮をとっていたようです。
七月二日
「依テ御側役島津主殿ハ祇園台場二、中山中左衛門ハ辨天・新波戸ノ両台場二、
大久保一蔵ハ砂揚場二、御軍役奉行新納次郎四郎ハ大門口台場二、御軍賦役等ハ各所ノ衛隊二伝令ス」
(忠義公史料 市来四郎編 文久三年七月ノ一 四〇八ノ三)
「大久保一蔵ハ砂揚場二」とあるため、大久保の持ち場は「砂揚場」(すなあげば)だったことがわかります。
砂揚場は現在の天保山台場跡で現在もその台場跡が残っています。
「此ノ時各砲台二ハ二三日前ヨリ司ル処ノ砲二装薬シ、点火スルノミ二準備シ待チタル二、日前我カ汽船挽キ去ラルルヲ見テ、握腕憤蹈シテ、干時七月二日午上刻頃ナリ(砂揚場砲台初二放発セリ 入斤砲鎌田市兵衛等掌ル)続ヒテ五ヶ所ノ砲台我先ニト放発ス」
(忠義公史料 市来四郎編 文久三年七月ノ一 四〇八ノ三)
大久保の持ち場だった砂揚場の大砲がいち早かったようです。
さすが、大久保さん!!
最初に発砲というのが、大久保さんらしい気がしますww
また、同史料によると、七月二日には、「朝ヨリ天気隠曇、東風強ク雨ヲ含メリ、台風ノ兆ナラント咸人注意セリ」
とあり、台風でかなり天候が荒れていたことが伺えます。
スイカ売りに扮した奇策
有名な「西瓜売りの決死隊」(笑)
スイカ売りに扮して、英艦に乗り込み、あわよくば船まで奪い取ろうとした奇策。
奈良原と海江田がこの一件(生麦事件から)の責任者だったが、大久保ら誠忠組の面々が押したという記録も残っています。
「一説に依れば、久光公は此計画には甚だ伺いなりしも、大久保其他有志の切望に依り、特に其の請願を容れ之れを許可せられたりと、其説果して真なるや否を知らず。」
(薩藩海軍史 第五編 忠義公時代 479頁)
それにしても、冷静で賢い大久保公から、この策を押したというのは、想像できないですが。。。
(※)大久保公は父親の無事を祈り、毎朝、大中神社に内緒でお参りに行っていたが、煙管を忘れて六年後しに見つかったという。
(大久保利通 (講談社学術文庫)/講談社)
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鹿児島県鹿児島天保山町22 天保山公園
◆参考文献
・「薩藩海軍史」
・「忠義公史料」
・「甲東逸話」