BAKULAB。

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2015-08-10

鉄砲にも恐れない!?豪傑、大久保利道

2015-08-10
8月10日(9月26日)は大久保利道が生まれた日です。
天保元年庚寅(1830年)今から、185年前に薩摩藩(現在の鹿児島県)に生まれました。

昨年は、大久保の子どもの頃の逸話を紹介しましたが、今回は、"豪傑、大久保利道"ということで、大久保の豪傑っぷり、エピソードの一部を紹介したいと思います。

(※豪傑というよりは豪胆のほうが強いかもしれません、度胸がある、肝が据わっているという意味でご理解いただければと。)

【エピソード1】.鉄砲にも恐れない豪傑っぷり


米田虎雄の談にこんなものがあります。
1874年(明治7年)の佐賀の乱の際、政府側の司令官だった野津鎮雄に戦況確認のために会いに来た時の話です。
大久保45歳の時です。

「その時の大久保公の沈勇は愕いてしまった。
ウムと一言いったかと思ったら、ドスンと一歩踏みしめて、弾丸の降る中を平気で歩き出した。
馬は廃めて歩いた。
火の燃える所までは半道もあるのに、別に走るでもなければ周章てる(あわてる)でもない。
平然としてドシドシ歩いてる。時々足元や耳の辺へポツーンポツーンと弾丸が来るので
はなはだ心持ちは悪いが、大久保公は平気なものであった。」

「足元や耳の辺へポツーンポツーンと弾丸」が来る中、平然と歩く大久保公。
さすがの豪傑っぷりです。

また、家が近くにあったが、弾丸が周りに来ているにもかかわらず、その家の陰などには隠れず、眼も瞬かず戦況を見ている、野津が手を引っ張るようにして家の陰まで引っ張ったと、米田虎雄は言っています。

引っ張られる大久保さんっっ

「別に力む訳でもなく、気持ち悪そうな顔一つしなかった。
場数を踏んだものでもいい気持ちはしないものなのに、大久保は誠に平然としていた。」
と言っています。

いつでも、どんなときでも平然としているのが、大久保公のすごいところですよね。


【エピソード2】.新撰組がつけていても平然と

大久保一蔵は、1867年(慶応3年)10月14日に大政奉還の翌日に、「倒幕の密勅」を
正親町三条実愛の自宅を訪れ、それを受け取ったときのこと。
大久保38歳のときのことです。

正親町三条の回想によると新撰組に大久保は尾行されていたそうです。

心配した正親町三条は、大久保に「どうするのか」と聞くと、
何も恐ろしいことはない」と答え、平然と出て行ったといいます。

肝の据わっている男です。


【エピソード3】.暴徒に対しても慌てたそぶりなし

明治11年の5月14日、大久保は紀尾井坂の変に会い、倒れます。
事前に、島田一郎からは「不日汝に天誅を加う」という通知書が来ていたとのこと。

大警視、川路利良は「石川県人は因循にして実行力に乏し、彼らはた何をか為さん」といい、別段特別の警戒もしなかったといいます。

大久保自身も必要ないと感じていたからでしょうか。
死に対して、まったく恐れない大久保なので。


明治11年の5月14日の朝、馬車で赤坂仮皇居へ向かっている最中、襲撃されます。

暴徒は大久保の右手を切り付け、
大久保は慌てた様子もなく大声にて「待て」と言いながら
書物を御用箱に入れたそうです。

兇徒の一人が、その時の一声が、耳に残っていると糾問の際にいったとか。


最期の瞬間まで慌てた様子もなく、平然としている大久保公。
最期まで肝っ玉が据わっています。


豪傑っぷりが現れている畳回しのネタも入れたかったんですが、以前別の記事に書いたので、興味がありましたら、こちらの記事も合わせてみてもらえると、豪傑っぷりがわかるかもしれません。

大久保一蔵の意外な一面!必殺畳回し



◆この記事を見た人におすすめの記事
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◆参考
・「大久保利道」佐々木 克監修 講談社学術文庫 2004年
・「さつま人国誌」桐野作人 南日本新聞社
・「大久保利道と明治維新」佐々木克 吉川弘文館 1998年
・「東京日日新聞」明治11年5月27日付
・「近代日本国民史 明治三傑 西郷隆盛・大久保利道・木戸孝允」徳富蘇峰 講談社学術文庫 1981年

 
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