小松帯刀は、薩長同盟や大政奉還などを推進した薩摩藩の中心人物です。
NHK大河ドラマ「篤姫」でも、準主役として瑛太が演じていましたね。
(篤姫とは幼馴染はフィクションだそうですが。)
小松帯刀、改葬までの墓所
小松帯刀は、明治3年7月20日に大阪で亡くなりました。明治9年(1876)鹿児島に改葬されるまで、大阪のこの地に埋葬されていました。
お地蔵さまが中心にいらっしゃいます。
夕日岡(夕陽丘)発祥の地でもあるようです。
説明板には、
「墓陵は天王寺村之内家隆在之夕日の岡ト申ス所、摂海見はらし至極眺望宜敷所二御座候(略)」
と薩摩藩士木場伝内が大久保一蔵(利通)に宛てた書簡に記している。
大久保や五代友厚が、小松の墓参りに夕日岡を訪れている。
とあり、大久保、五代が小松の墓参に訪れていることが書かれています。と薩摩藩士木場伝内が大久保一蔵(利通)に宛てた書簡に記している。
大久保や五代友厚が、小松の墓参りに夕日岡を訪れている。
また、伊達家・陸奥家の墓所跡でもあります。
小松帯刀墓所跡にあるお地蔵様です。
この場所は、「稱念寺」(お寺の横)にあります。
場所がわからずウロウロ迷ってしまいました。
この日は残念ながら、夕方だったので時間切れ。
門は閉まっていましたが、小松帯刀墓所跡が稱念寺の門の外側だったので、無事見ることができました。
小松の死因は、足痛か?
小松は以前から持病の「足痛」がひどかったそうで、「足痛」(脚気か?)が死因という説もありますが、桐野作人(著)の「さつま人国誌 幕末・明治編」によると、死因は「肺結核」ではないかと、紹介されています。
明治2年12月8日の桂右衛門が小松帯刀宛の見舞状に、
「御肺病如何と想像奉り、坂地良医も御座候由、拝承仕り候に付き、
必ず速やかに御快然と存じ奉り候」とあり、
「御肺病」=「肺結核」ではないか、ということ。
ちなみに、小松は持病の足痛で、上京叶わず、
大久保が小御所会議に代理で主席したという経緯があります。
もし、小松が上京できていたら、小御所会議での大久保の「徳川慶喜の辞官納地」を求める激論はなく、のちの明治政府の大久保の活躍もなかったかもしれませんね。
大久保のことだから、それでも内務卿になってそうですが。
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◆MAP:称念寺
◆参考文献
・「さつま人国誌 幕末・明治編」桐野作人、南日本新聞社、2009