明治8年に、伊藤博文、井上馨の仲介により、
大久保利通、木戸孝允、板垣退助の協議が大坂北浜の料亭「加賀伊」(現)で行われました。
木戸孝允より大阪会議の成功を祝い「花外楼」の名前を贈られる
大阪会議開催の地のビルに、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨のレリーフがあります。大阪会議顕彰のレリーフ |
レリーフはビルの壁にあります |
開催地となった花外楼。
料亭「花外楼」 |
お店の歴史を見ると、「花外楼」は天保元年創業で、加賀の国から来た伊助が料理旅館「加賀伊」を開いたのが、はじまりだそう。
木戸孝允より会議の成功を祝って、舞台となった料亭「加賀伊」に
「花外楼」の屋号を贈り、現在も続いています。
お店の入り口にある「大坂会議開催の地」の碑 |
大阪会議の主なテーマは、今後の国政について。立憲政体の樹立、三権分立、二院制議会の確立です。
大久保利通は、立憲政治に対し消極的だったが、木戸孝允を政府へ復帰させるため、
意見を軟化させたと言われていますが、実際はどうだったのでしょうか。
伊藤博文の懐古談では、知られざる一面が語られています。
→大久保利通は立憲政治を目指していた ①
大久保利通は立憲政治を目指していた ②
大阪会議開催前に木戸孝允と大久保利通の会談が、三橋楼で行われています。
次は、三橋楼を紹介します。
◆MAP
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◆参考
・料亭花外楼(歴史)