最後の書簡は、伊藤博文にその早朝宛てた手紙だといわれていますが、その前日、大久保利通は岩倉具視宛に書簡を送っています。
書簡の裏側に描かれる岩倉具視の「大久保利通の死」を悼む気持ち
岩倉は大久保の死後、紀尾井坂の変に倒れた同志を思う内容を手紙の裏側に書きました。
この内容を初めて知った時、「きゅっ」と切ない気持ちになりました。
岩倉が大久保と共に明治維新という困難、維新後の政府の困難を乗り越えてきたからこその内容です。
「私は氏とは一番長く同志として付き合いました。
私が罰を受けて北山にひっそり住んでいた頃、警備が厳しく、親や妻でさえ会うことが出来ませんでした。
氏は隙を窺って、こっそり会いに来てくれました。
その時相談していたことはみな国家の大事であり、秘密に計画などを立てていましたので、他に知る人はいませんでした。」
(中略)
「後に氏と一緒に朝廷に立ち、共に図り、共に勤め、以来十年以上経ちました。
私のようなものが不当に重要なポストに就いて、思い任務を辱めながら罪に問われなかったのは、陛下の恩と優しさによるものだというべきですが、その多くは、また、氏に助けられたからでした。
氏と私は建前は同僚ですが、感情は兄弟に等しいものでした。」
(中略)
「遺墨を広げたら、思わず泣き出しました。
この書簡は山形秋田県人民の巡幸をお願いする件についてくれたものです。
氏が職に臨んで考えたことや、たゆまず陛下に尽くし、民を愛する様子が、またこれによって想像ができます。
私と氏の間に往復の書簡は数多くありましたが、これは氏の絶筆なので、表装として、我が家におき、毎日拝み、これを氏の遺影の代わりにしています。」
(※「薩摩のキセキ」266頁より引用)私が罰を受けて北山にひっそり住んでいた頃、警備が厳しく、親や妻でさえ会うことが出来ませんでした。
氏は隙を窺って、こっそり会いに来てくれました。
その時相談していたことはみな国家の大事であり、秘密に計画などを立てていましたので、他に知る人はいませんでした。」
(中略)
「後に氏と一緒に朝廷に立ち、共に図り、共に勤め、以来十年以上経ちました。
私のようなものが不当に重要なポストに就いて、思い任務を辱めながら罪に問われなかったのは、陛下の恩と優しさによるものだというべきですが、その多くは、また、氏に助けられたからでした。
氏と私は建前は同僚ですが、感情は兄弟に等しいものでした。」
(中略)
「遺墨を広げたら、思わず泣き出しました。
この書簡は山形秋田県人民の巡幸をお願いする件についてくれたものです。
氏が職に臨んで考えたことや、たゆまず陛下に尽くし、民を愛する様子が、またこれによって想像ができます。
私と氏の間に往復の書簡は数多くありましたが、これは氏の絶筆なので、表装として、我が家におき、毎日拝み、これを氏の遺影の代わりにしています。」
岩倉と大久保が出会ったのは、文久2(1862)年の5月6日とされます。
それから維新を経て、明治11(1878)年の5月13日まで、一緒に討幕から国づくりをやってきた同志。
「氏と私は建前は同僚ですが、感情は兄弟に等しいものでした。」
同志をいきなり失うことを思うと切ないものです。
岩倉具視は命日の例祭ごとに手紙を拝んでた
「翌十二年五月十二日甲東の一周期に當(当)り、岩倉公は、之を床の上の左に、甲東の肖像を其の右に掲げ、甲東の世嗣利和、黒田清隆、吉井友實、大山巌、西郷従道、及び松方正義等数十人を招いで懇なる祭典を行い、追悼の意を表わせられた。
爾来公は、甲東の例祭毎に之を以てその肖像に代へ、奠拝されたということである。」
(※「甲東逸話」266頁より)爾来公は、甲東の例祭毎に之を以てその肖像に代へ、奠拝されたということである。」
爾来(ジライ)=それから後、奠拝(テンハイ)=供えて拝める
また、岩倉はこの手紙を命日の例祭ごとに、拝んでいました。
黒田清隆、吉井友實、大山巌、西郷従道、松方正義ら薩摩藩での同志、息子利和ら数十人を呼んで祭典を行っていたようです。
◆こんな記事も書いています。
・大久保利通が最期に書いた伊藤博文宛の手紙(絶筆)
・大久保が死の直前まで持っていた西郷からの手紙〜紀尾井坂の変
◆関連記事・リンク
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◆参考文献・参考資料
・「薩摩のキセキ 日本の礎を築いた英傑たちの真実 」
西郷 吉太郎/西郷 隆文/大久保 利泰/島津 修久 (著), 薩摩総合研究所「チェスト」 (編集) 総合法令出版株式会社
・「甲東逸話」勝田孫弥 富山房 昭和3 266頁