BAKULAB。

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2014-01-26

◆船員教育発祥の地【殖産興業/明治/江戸の史跡/岩崎弥太郎】

2014-01-26
船員教育発祥の地は、内務卿大久保利通が、三菱会社の社長岩崎弥太郎に依頼して、明治8年11月この地に商船学校を開設させた場所です。

船員教育発祥の地は、永代橋の側にあります

当時の場所を示す石碑が、東京都中央区の「永代橋」の側にあります。
永代橋は隅田川に掛かる橋で、この碑は西側(現在:新川、旧:霊岸島)に存在しています。













こちらは永代橋、見える川は隅田川です。
永代橋の夜のライトアップはとてもきれいです。












この碑は、東京商船大学100周年記念で建てられたもののようです。


大久保利通は富国のために貿易を進めようとしていた

なぜ、大久保は商船学校を岩崎弥太郎に依頼したのでしょうか。
岩崎弥太郎というと三菱財閥の創業者で、龍馬伝でも登場していたのが、みなさんのイメージにもあるはず。

明治初期の当時、海運業は世界的にも遅れていて、船員のほとんどは外国人で運営されていました。

大久保は欧米視察後、
イギリスの富強を支えているのは貿易だ!」と考え、
海運業に関する改革と推進を必要としていました。

また、日本には多額の貿易赤字もあり、その解消も急務!

そのためには、学校を作り船員教育をし、いち早く国内の船員を育てることでした。


台湾出兵後、岩崎弥太郎と親密に。明治8年11月、商船学校を開設

岩崎弥太郎は、明治7年に台湾出兵で、政府の軍事輸送を一挙に引き受けていました。

当時の台湾出兵では、兵隊や大砲・弾丸・食料を独占的に輸送し、
「三菱商会」は、台湾出兵後に不要となった政府の船13隻の所有権を得ています。

独占ということで世論の批判もあったようですが、このころから大久保と親密になり、信頼も厚かったようです。


明治8年には、三菱商会を改称して、三菱汽船会社を設立。
大久保は、岩崎弥太郎に依頼し、明治8(1875)年11月、商船学校を開設となりました。

当時の商船学校は、三菱の成妙丸(せいみょうまる)を帆船に改造したもので、校舎兼練習船であり、その中で近代的船員教育を実施していたそうです。


政府は三菱に援助をし、上海航路の独占に成功

また、政府は、欧米の海運業と対抗するため、国内の海運業の保護政策を打ち出し、三菱汽船会社に資金の援助を行いました。

その結果、横浜〜上海航路から、アメリカの太平洋汽船会社とイギリスのP&O汽船会社を排除に成功しました。

見事、横浜〜上海航路の独占を果たしました。


現在の商船学校は越中島にある東京海洋大学として存続

人材を育成し、近代国家の海運業の発展に大きく貢献した、その商船学校はどうなっているでしょうか。
その内容は、石碑に刻まれていました。
ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承されている。
大久保利通と岩崎弥太郎がつくった商船学校は、東京水産大学と合併し、越中島にある東京海洋大学となって継承されています。


船員教育発祥の地の石碑の内容(全文)

「内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。

当初の、教育はその頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢(こうし)となった。

爾来(じらい)百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承されている。」

嚆矢(こうし)=物事の始まり
爾来(じらい)=それ以降、それ以来




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◆MAP:教員教育発祥の地
東京メトロ日比谷線、東西線茅場町駅から徒歩10分


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◆参考文献・参考資料
歴史人 2013 No.38 60頁「民間企業の支援で強国へ! 帰国した大久保と岩崎弥太郎」
歴史文化ライブラリー45 大久保利通と明治維新(佐々木克/吉川弘文館)
日本の歴史17「日本近代の出発(佐々木克/集英社)
中央区環境協会
wikipedia 岩崎弥太郎 三菱財閥
 
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