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2015-03-08

勝との会談前から慶喜の寛大な処分が決まっていた!?江戸開城の秘話

2015-03-08
江戸開城において、西郷隆盛が江戸に総督府参謀として向かう前に、このような書翰を大久保利通から受け取っています。

恭順をしているなら寛大な思し召しを


徳川氏処分に関する意見書 明治元年二月
一 恭順の廉を以って慶喜処分の儀 寛大仁恕の思食(思し召し)を以って死一等を滅さるべき事
一 軍門へ伏罪の上 備前へ御預りの事
一 城明け渡しの事 但し軍艦鉄砲相渡し候勿論の事
右三か条を以って早々実行を奉り候様
朝命厳然降下若し奉せすんば
官軍を以って打ち下すべくの外 条理これ有るまじくあり奉り候事
但し除條は推て及び御沙汰べき事

意訳すると、
1.よく恭順しているなら、慶喜の処分は、寛大仁恕の思召しをもって、死一等を減ぜられること
1.軍門へ伏罪の上、備前へお預けのこと
1.城明渡しのこと。但し軍艦・銃砲等を引き渡すことは言うまでもない

この年の3月9日、東征大総督府参謀の西郷隆盛が駿府の大総督府本営において、徳川の処分陳情のために勝海舟の意向を受けてきた山岡鉄太郎に会見。
初めて恭順の誠意を聞いた西郷から山岡へ渡した謝罪の実行条件とほぼ同じ内容です。



勝との会談前から慶喜の寛大な処分が決まっていた!?

「大久保利通文書」の解説によると、京都を発つ前にあらかじめ大久保と話しあい、三條、岩倉の両公にこの意見書を提出し、内議したもので、この書翰の原本は、大久保が起草して岩倉に提出したものだといいます。

つまり、勝との会談の前に徳川処分について、西郷、大久保、三條、岩倉間ではすでに話合われ、西郷はその内容に沿って、判断していたということが伺えます。


恭順の誠意が確認できなければ征討の可能性も

当時、西郷と大久保たちの意見は、徳川慶喜の「恭順の誠意」が確認できなくては、征討の趣意を徹底すべきと言いつつも、もし「恭順の誠意」を明らかにして謝罪をするなら、
情ある取り扱いをして朝廷の「仁の恩遇」を受けるべき、との考えだったようです。

そののち、この慶喜及び幕臣たちの寛大な処分について、大久保が斡旋している事実は日記やそのほかの文章に徹して知ることができます。


江戸開城においては、勝との会談が救ったとか、英国の圧力に恐れて、寛大な処置をした、など様々なエピソードがありますが、この書翰の内容はあまり知られていないのではないでしょうか。

そして、この取り決めがあったからこそ、
西郷が責任を持って勝との会談に於いて、その裁量で決めることができたようにも思えます。



◆参考文献
・「大久保利通文書 第2」日本史籍協会 昭和2年 226P
187 徳川氏処分に関する意見書 明治元年二月 (大久保家蔵)より

 
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