(→(記事)大久保利通は立憲政治を目指していた ①)
大阪会議は実は、民間政客の意志によって成立したもののように伝えられていますが、
事実の真相を誤っていると伊藤は言っています。
国会の将来を思い木戸を推したい
明治7年、大久保が台湾出兵から帰って間もない時のこと。早朝、大久保は伊藤宅に訪ねて国政上に関する懇談をしたといいます。
大久保は、
「さて支那事件は幸に落着したが、国家の将来を思へば、深く考ふるところがある。
就いてはこれから是非木戸を推したい。自分は驥尾に附して微力を致さう。
近日中に、自ら山口に出張して、木戸に逢いたいと考えている」
と伊藤に相談。
(※驥尾に附して=優れた人(木戸)に従ってついていき、志を成し遂げる。)
伊藤は、
「ご賢慮は承りましたが、あなたがわざわざ山口まで御出馬になるのは少し考えものであります。先ず木戸の意中を確むる必要があります。
それほどの御決心であれば、自分より先づ木戸に手紙を出し、事に托して大坂邊で会合されるよう計らって見ましょう。」といい、
まず木戸孝允に意見を詳しく書いて送りました。
すると、木戸から「大坂に出る」という返事が来たそうです。
その知らせに大久保は非常に喜び、表面は有馬温泉に療養のためといって、休みを取り大坂に赴き、木戸を待ち受けていたそう。
立憲政治に一歩を進めた内容
大久保と木戸は会議をし、会議は都合よく運んだから大坂に来てください、といった手紙が大久保から来たので、伊藤も大坂に向かい、木戸と大久保の両者の意見の一致に努めたとのこと。
意見がまとまり、将来の「施政の方針」というべき綱領を、伊藤は両雄の同意を得て記したそうです。
その綱領はいわゆる「三権分立」
元老院の設置、地方官会議の開催等、(地方の代表者の会議という主意にて)、立法、司法、行政三権分立の素地をつくり、立憲政治に一歩を進めた内容でした。
伊藤の話によると、
丁度、その時、大久保と木戸の会合ということで、板垣ら朝野の政客が大坂に集まり、
木戸さんの提議により、板垣退助とも意見交換が行われ、共に入閣することになったそうです。
大久保は以前から持っている志を達成し、とても満足し、一足先に東京に戻りました。
続いて、木戸と板垣は参議に任じられ、大坂会議の網領が実施されていったといいます。
憲法制定は木戸、大久保の遺志
伊藤は、「大阪会議なるものは全く大久保さんの発議に基き成立したるものであって、わが国の憲法史上特筆すべき重要な出来事である。
その後自分が勅命を奉じて憲法制定の事業に当たったのも、
実に木戸、大久保両先輩の遺志を継紹したるものに外ならないのである。
世間にまだまだ誤解されたことが多いのである。」と語っています。
これは「甲東逸話」に載っている伊藤博文の懐古談ですが、伊藤は大久保、木戸両雄に師事を仰ぎ、近くでその仕事を見ていた人なので、この話の中身は真実に近いのでは?と思います。
伊藤の談の最後にある「世間にまだまだ誤解されたことが多い」は、現在でもいえることではないでしょうか。(特に大久保は誤解されていることも多いのでは?)
前回の記事でも、大久保は国会を開くことを目標としていた、だが、「現状の国の状況を照らしあわせて、突飛な民選議院論には賛成できない」と言っています。
大久保は専制主義の人ではなく、順序建てて物事を進める斬新論者だったということや、
大坂会議は大久保が立憲を考え、木戸と話をしたということ、など、
伊藤の「歴史は真実を語り、大久保さんの心事が明白になる時が来るであろう。」
という言葉に、その心事を知るひとつのきっかけとなればいいなと、紹介してみました。
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◆参考文献
・「甲東逸話」勝田孫弥、富山房、昭和3