大久保利通は、明治11年5月14日、石川県士族の石川県士族島田一郎らによって、その生涯を閉じました。
享年で49歳でした。
今回は、大久保利通その一周忌の話をしようかと思います。
川路利良大警視らは石灯籠を送る
大久保の一周忌は、平山権大教正を斎主として、午前は大久保邸内、午後は青山霊園にある墓地にてとり行われたそうです。宮内庁から西四辻侍従が勅使として赴き、大久保邸では、勅任官(※)の方々を初め、親族の人たちが集まり、飲食でのおもてなしがあったとのこと。
その際に、川路利良大警視と地租改正局中から石灯籠を一つづつ、また、石井権中警視からは、根府川石の手水鉢を納められたそうです。
また、大久保とともに着られた馬の、碑も建てられたそうです。
石灯籠、手水鉢、馬の碑も青山霊園にある大久保利通の墓で見ることができます。
大久保利通公の墓 |
敢表徴忱が書かれた灯籠(右側) |
仰欽餘光が書かれた灯籠(左側) |
大警視川路利良の名が刻まれている 仰欽餘光の灯籠の横 |
明治11年の7月に日付が記載されている |
従者中村太郎と馬の墓 |
一周忌に送ったという内容は、1879年5月14日朝刊1ページ目に記載されていた情報ですが、ただ、石灯籠の日付を確認すると、明治11年の7月に日付が記載されていたので、奉納し、その場に置いたのが一周忌だった、ということでしょうか。
発砲が聞こえ、近所の人は大慌て!?
また、当時の朝方4時頃、青山霊園で、しきりに銃声が聞こえたため、近所の人が、大変驚いたそうです。
大久保の一周忌のため、暴徒が墓地に押し寄せたのではないか?
そんな不安が過り、荷造りして逃げ出す人もいたそうです。
様子を聞いてみると、東京鎮台第一連隊の歩兵が夜中、行軍とした帰りに
青山の神葬地邊にて空砲を発したとのこと。
それがわかって当時の人は、安心したとか。
※明治憲法下での官吏区分で、高等局の一種(wikipediaより)
◆青山霊園「大久保利通の墓」
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◆参考
読売新聞1879年5月16日朝刊
読売新聞1879年5月14日朝刊