BAKULAB。

BAKULAB。
2014-04-27

■安積疎水事業【郡山/殖産興業/士族授産/大久保利通/中條政恒】

2014-04-27
安積疎水は、猪苗代湖から安積地域へ水を引き、原野に農業用水、工業用水、飲用水を供給している疎水です。

もともと、安積地方は水源に乏しく、干ばつの影響を受けやすい地域でした。

中條政恒が大久保利通に進言し動き出した安積疎水事業


明治維新後、当時、安積疎水事業は、開拓掛だった福島県書記官中條政恒が、明治天皇東北行幸の先発隊で訪れていた大久保利通に、その必要性を進言。
当時の政府の主軸であった「殖産興業」「士族授産」(士族の入植・開墾)を目的に、このプロジェクトが動き出します。

明治9年6月5日の大久保日記には、下記のように桑野村を視察し、安積疎水への開拓の成功を信じている内容と開成館の建物の美しさについて語っています。
「六日五日 月曜日

今朝六時 小野新町駅を発す
三春迄の間 道路不宜処々嶮難あり
十一時 三春へ着き 午飯十二時に発し
二時郡山へ着く
福島県令参事 山吉氏当初へ出張これ有り
則 桑野村開拓地へ案内これ有り差し越し
広大の土地開拓の業相成り真に見るべし
凡百二三十町これ有り
桑水田其の外 樹木も試験この模様にては成功の疑いなし
人民も百二十戸位も移住の由 この中央に洋室の盛大なる建築これあり
三階作にて眺望至りて宜しく最風景も美なり
掛官員より彼是承り帰懸開拓地を廻り大略を一覧いたし候」
(「大久保利通日記 下巻」153P)


安積疎水事業は明治政府の国策第1号事業に

疎水とは、灌漑、給水、舟運または発電のために土地を切り開き、水路を設け通水させること。
安積疎水は、猪苗代湖から水を引き郡山の広大な原野を開拓するための用水路でした。

大久保は、中條からその話を受け、技師の南一郎平を派遣し、現地視察させ、猪苗代湖からの取水口を調査させ、翌年の明治10年3月7日、安積疎水事業の着手を建議、測量、設計が始められたのでした。

1878年(明治11年)には実施が決定。この安積開拓事業が、明治政府の国策第1号事業になりました。オランダ人技師ファン・ドールンを派遣し、調査を行い、沼上峠コースも決定。

その年の11月には久留米藩が入植、1883年(明治16年)までに9藩476戸が入植しました。


大久保の死後も事業が進められ、郡山の発展の礎となった

大久保の死後もこの事業は進められ、明治15年10月1日、福島県郡山で盛大に安積疎水の通水式が行われ、松方正義(大蔵卿)、西郷従道(農商務卿)、徳大寺実則(宮内卿)、右大臣岩倉具視も出席。

その後、明治31年には郡山絹糸紡績害者が設立し、絹糸製造の動力減として、沼上発電所が建設されたり、明治45年には疎水を水道用水として利用され、安積疎水の完成は郡山の発展の礎となったそうです。

現在では、琵琶湖疏水、那須疎水と並び、日本三大疎水とされています。




【関連記事】
└天皇行幸の際に使われた開成館
└安積疏水の恩恵を残した大久保利通の遺徳を永く伝えるため、建立された神社
*安積歴史博物館


◆参考文献・参考資料
*郡山市開成館パンフレット
*郡山発展の源 安積疎水ガイドマップ
*日本の歴史17「日本近代の出発」(佐々木克/集英社)


 
Toggle Footer