当時を感じられる!? 岩倉具視、5年間隠棲していた場所
岩倉具視は、和宮の将軍降嫁を推進したため、尊王攘夷の過激派から佐幕派と見られ失脚しました。ここは、その後、隠棲としていた場所です。
文久2年(1862年)9月から慶応3年(1867年)11月までの5年間、岩倉具視は住んでいたとされます。
国際会館の駅から、24系統、岩倉実相院行きに乗るはずが、バスを間違えてしまい、岩倉村松行きに乗ってしまい、途中下車して、7分ほど?歩きましたが、なんとか着きました。
「左 岩倉公幽棲地」(写真下)と書いてある石碑を曲がると門(写真上)が見えます。
京都市のサイトによるとこの建物は、文久4年(1864)に大工藤吉の居宅を購入し、主屋と繋屋を増築したそうです。
茅葺の主屋は約60㎡、附属屋は約67㎡、繋屋は約9㎡だそうです。
ちょうど時期がよかったのか、人がいなく、受付のおじさん?にいろいろ話を聞きました。
尊王攘夷派の人から、動物の死骸(鳥だったっけ?うる覚え)を投げ入れられた、とか。
とても、混雑している京都とは思えず、のんびりした時間が過ごせます。
大久保利通も岩倉具視に会いにこっそり訪れていた
岩倉と大久保が出会ったのは文久2年の5月。岩倉が隠居中も大久保は、こっそり会いに来たといいます。
その内容は岩倉自身が、大久保の死後、手紙の裏に残しています。
→岩倉具視は手紙の裏に「大久保利通の死を悼む気持ち」を書いて拝んでいた
私は氏とは一番長く同志として付き合いました。
私が罰を受けて北山にひっそり住んでいた頃、警備が厳しく、親や妻でさえ会うことが出来ませんでした。
氏は隙を窺って、こっそり会いに来てくれました。
私が罰を受けて北山にひっそり住んでいた頃、警備が厳しく、親や妻でさえ会うことが出来ませんでした。
氏は隙を窺って、こっそり会いに来てくれました。
岩倉具視の関係史料がみれる対岳文庫
また、同じ敷地に対岳文庫があります。展示の広さは狭いのですが、貴重な史料がみれるので、訪れた際にはぜひ寄ってみてください。
ドアはちゃんと締めないと猫が入るそうですよ。
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・岩倉具視の暗号表見つかる!!
◆MAP:岩倉具視幽棲旧宅、対岳文庫
◆行き方
・電車・バス
・京都市営地下鉄 「国際会館駅」、京都バス24系統「岩倉実相院」下車、徒歩3分
・京阪電車 「河原町駅」、京阪電車 三条駅・出町柳駅、京都バス21、23系統、「岩倉実相院」下車、徒歩3分
・叡山電車「岩倉駅」、京都バス21、32、24系統「岩倉実相院」下車、徒歩3分
・電車・徒歩
・叡山電車「岩倉駅」、徒歩20分
◆参考
・「国指定史跡岩倉具視幽棲旧宅の一般公開開始について」