三橋楼は、明治8年、大阪会議に向け、大久保利通・木戸孝允の最初の会議が行われた場所だそうです。 大阪会議に向けて大久保利通・木戸孝允が最初に会議した場所 説明には、 「幕末〜明治中期、難波・天神・天満の三橋を北に望む高台にあった料亭で、 明治8(1875)1...
◆大坂会議開催の地 (花外楼)【大坂北浜/大久保利通/木戸孝允/板垣退助/伊藤博文/井上馨】
大坂北浜に大坂会議開催の地があります。 明治8年に、伊藤博文、井上馨の仲介により、 大久保利通、木戸孝允、板垣退助の協議が大坂北浜の料亭「加賀伊」(現)で行われました。 木戸孝允より大阪会議の成功を祝い「花外楼」の名前を贈られる 大阪会議開催の地のビルに、大久保利通...
◆浜寺公園の惜松碑【大阪/大久保利通/税所篤】
以前、「 詩で浜寺の景観を守った!大久保利通が税所篤を動かした洒落た政治 」で紹介した大阪の浜寺公園の惜松碑を見てきました。 古い駅舎が残る浜寺公園駅 浜寺公園の最寄り駅は南海電気鉄道本線の浜寺公園駅。大阪から45分ぐらいで着きます。 1907年に建てられた木造平屋建て...
大久保利通が最期に書いた伊藤博文宛の手紙
大久保利通が最期に書いた絶筆は、伊藤博文に宛てた手紙です。 その内容は大久保が、明治11年5月14日当時、太政官で地方官の進退府県の統合など、内務省官の重要問題を議定しようとし、伊藤博文、大隈重信などに参朝を告げたものでした。 紀尾井坂の変の30分前にしたためたものです。 ...
大久保が死の直前まで持っていた西郷からの手紙〜紀尾井坂の変
本日、5月14日は大久保利通の命日です。 137年前、紀尾井坂の変で倒れました。 (2015/11/22 補足) ※この記事は、東京日日新聞と当時の人の証言をもとに記載しています。 大久保の所持していた手紙の1通は、明治11年5月13日付の楠本正隆書簡で、起業公債発行に...
薩摩藩の家格とは?〜西郷隆盛と中村半次郎の逸話も
薩摩藩は75万石の雄藩で、総人口は約70万人、そのうち約20万人、約4割が武士という、日本一武士の割合が多い藩です。 薩摩藩士たちの身分は、世襲制の家格によって階級がわかれていました。 薩摩藩の家格 薩摩藩の家臣たちの家格は、10の家格に分かれていました。 [...
真実はいかに〜大久保利通の「囲碁で出世」の逸話に迫る
大久保の有名な逸話で、島津久光に取り入る為に、囲碁を習ったという話があります。 吉祥院に囲碁を習い、久光の碁の相手に 島津斉彬が逝去されたのが、安政五年の七月。 大久保がリーダーの誠忠組で突出計画が出たのも、それから半年も経っていないときでした。 藩主は、...
◆中條政恒翁頌徳碑・安部茂兵衛銅像【安積疎水/郡山】
開成山大神宮の側の駐車場近くに中條政恒翁頌徳碑と安部茂兵衛銅像があります。 「安積開拓の父」である中條政恒翁頌徳碑 中條政恒翁頌徳碑にあるこの碑文、なんと、大久保利通の長男、大久保利武が書いたものだとか。 中條政恒翁頌徳碑の説明文です。 ...
勝との会談前から慶喜の寛大な処分が決まっていた!?江戸開城の秘話
江戸開城において、西郷隆盛が江戸に総督府参謀として向かう前に、このような書翰を大久保利通から受け取っています。 恭順をしているなら寛大な思し召しを 徳川氏処分に関する意見書 明治元年二月 一 恭順の廉を以って慶喜処分の儀 寛大仁恕の思食(思し召し)を以って死一等を滅...
◆開成山大神宮と旧日本松藩士族の入植の碑【安積疎水/郡山/中條政恒】
開成山公園の道挟んで、隣に開成山大神宮があります。 開成山大神宮は、東北のお伊勢さまといわれ、天照大御神をご神徳としている神社です。 安積開拓の開拓民の拠りどころ開成山大神宮 この神社は、中條政恒が安積開拓で開拓民の精神的なよりどころにする目的で、 伊勢神宮の分霊...
西郷隆盛の大久保利通への信頼〜自分が死んだら起つべきは大久保である
堀次郎(伊地知良馨)の日記の日記にある内容で、 西郷吉之助(西郷隆盛)と大久保正助(大久保利通)の逸話にこんな話があります。 自分が死んだら代わりは大久保しかいない 安政年間、西郷隆盛が将軍継嗣問題や幕政改革などに国事に奔走していたころ、 井伊直弼の大老就任に...
大久保も照れ隠し?帰藩の際に小松帯刀に送った手紙には
あけましておめでとうございます。 新年1本目はどうしようかと悩んだのですが、今日飲んだ芋焼酎が小松帯刀だったので、大久保利通から小松帯刀への手紙を紹介します。 小松帯刀は、薩摩藩の家老で、幕末期、大久保、西郷と共に活躍しています。 京都から帰藩の際に小松へ送った二首...